(アニメとかの)レイプ目に関する一考察


京アニCLANNAD最終回(第22話)より。テレビ放映で視聴した時も思ったんだけど、改めて。



テレビ画像をただ反射しているだけのこういう眼は、表現として思った以上に適切なんじゃないかしら。


画像の場面は、京アニCLANNAD22話開始9分くらいの場所。自分の所為で親の演劇への夢が閉ざされてしまったのだと思った渚が、その親が演劇に打ち込んでいた当時のビデオを見てしまって、ますますその思いを強くしていく場面。


これ、よく考えれば、分からない場面じゃないと思うんですよね。
この話の冒頭で、「自分の夢を叶える為に、みなさんの時間を沢山使わせてしまっています」と渚は言っており、そういった考えが”自分の所為で親の夢が閉ざされた”という思いを強くしているのですけど(正確には、親の夢が自分の所為で閉ざされたと思ったから、そういう考えが生まれたのですけど)、でも、考えれば。

あのビデオに映されている、秋生の姿。そして、現在の秋生の姿。
あれだけ、演劇に打ち込んでいて秋生が。あんなに、演劇が好きだった秋生が。
その演劇を辞めてまで、渚と一緒にいることを選んだ。
その真意は、秋生が大声で渚に喋ったコト(「親の夢は子の夢だ」とか)なんだけど。
その真意に、この時点で思い至っていても――少なくとも、ちょっとくらい脳裏をよぎっていてもおかしくない。
や、もっと少なくとも。
「自分が犠牲にした」以外の考えを抱いても、おかしくない。


でも、そうならないのは何故か。
それは、”それしか考えていないから”。「自分が犠牲にした・している」――そうとしか考えていない。


この眼つき――いわゆるレイプ目は、ある意味それを表現できていると思います。




鏡のように目の前のものを写すだけの眼は、彼女自身がこれを、その目に写されたままの形だけでしか認識いないことを表している。

この映像と今の状況を鑑みれば違う考えが生まれてもおかしくないけれど、そうではなく、鏡のように在る物をただ在るがままに写している彼女のその眼が、まさにその形状と同じ様に、目に写るもの(この映像)の裏とか真意とかを見ず、そのままの姿だけしか認識していないという彼女の状態を――心理状態を、まさにその絵で、表している。


なんてことを考えさせる眼の表現かなぁとか思います。
言葉が届かない・考えが変わらない・何も考えない・打っても響かない、そういった状態――裏を読まない・真意を考えない、そういった状態を表現するのに、いわゆるレイプ目。「在るがままを写す鏡のような目」というのは、その人物自体が、「在るがままを在るが形で認識している」
―――もっと言うと、『言葉が届かない・考えが変わらない・何も考えない・打っても響かない』という状態は、「在るがままを在るがままでしか認識できない(考えることを放棄している)」ということであり、このレイプ目の形状は、それを表現するのに案外ベストだったりして、とか。そんな話です。