エロゲのエロシーンは、物語にネガティブな効果を与える(場合がある)か


※タイトル含め、ほぼ全て書き直してます(7/9)
(つうかもう二回くらいは書き直さないと形にならないダメさがあるなぁ……。その辺のダメさを適当に流していただけると助かります)


■ギャルゲーにエロはそれほど必要なのか?
http://d.hatena.ne.jp/rikio0505/20080708/1215443157
こちらの記事と、そこに連なる「エロゲにエロはいらない」関連。


「エロゲにエロはいらない」。そもそもエロアニメからエロを取ったらアニメになっちゃうように、エロゲからエロを取ったらギャルゲになるよね、なんて定義論は思慮の外においていただいて。
さておき。
「エロゲにエロはいらない」というのは、大よそで二通りあると考えます。
ひとつは、「エロが無くても(殆どマイナスがなく)成立する=エロがなくても作品は殆ど変わらない」から、商業的な意味や市民権的な意味とかを込めてエロはいらない。
もうひとつは、「エロが無い方が”良い”=エロが無い方が作品が良くなる」から、エロはいらない。
前者に関しては、すでに余所様でも言及されていると思いますし自分には出来ないことなので、ここでは、後者について言及いたしましょう。


エロゲには様々なものが含まれています――いや、様々なものの集合体がエロゲです。
物語だったり、キャラクターだったり、CGだったり、テキストだったり音楽だったりヴォイスだったり、あるいはシステムとか選択肢とか構造とか、日常シーンとか個別ルートとかギャグパートとかエロシーンとかとか……これらは、別々に点在しているのではなく、密接に関わっています。音楽が物語を盛り上げたり。テキストがルートやシーンを起点としたり。それぞれが様々な機能を成して、それが密接に関わり合って、ひとつの「エロゲ」を作り上げているわけです。

とはいえ、その構造は、全て円滑に機能するわけではありません。例えば――極端な喩えですけど、このゲームの声優の演技ダメダメだからヴォイスOFFのがマシとか、あのゲームは物語もキャラもいいけどシステムで台無しにしているよねとか。
それと同じ様なことは、「エロシーン」と「他の何か(あるいは全体)」にも当て嵌まります。エロシーンが他の何か・全体を良くする。あるいは、悪くする。(もちろん逆も然り)


とりあえず、ここでは、エロシーンが物語に及ぼすネガティブな効果だけに絞って考えてみましょう。前提としては、keyのゲームみたいな、純愛系エロゲの物語とエロシーン。


エロシーンの存在は、エロゲの物語にネガティブな効果を与えるか? 時と物と場合によりますが、その可能性はあるでしょう。これも二通り考えられて、一つは作為の表出。”それまでの描写のタッチ・あるいはキャラの人格”などから大幅にずれてしまうエロシーンなんかはよくあって、例えば、非エロシーンの日常描写などに比べ、エロシーンが微に入り細を穿つかのように超細かい描写の作品なんかは、そこにその”超細かくしている理由”が透けてしまう=”「エロゲー」の名前どおり、エロイもの・抜けるものを書かなくてはならず、それを書いている”という理由=作為が見えてしまうような物もあります。
エロシーンになると性格が豹変する主人公なんかにも、それが垣間見える場合はあります。ごく普通の青年が、Hになると鬼畜野郎に変貌するのって、や、実際にそういう人間はいることはいますけど、わざわざ”ここで”それ(しかも多数派じゃない、むしろ特殊性癖じみたもの)を持ち出してしまうところには、”エロシーンを円滑に(エロく)進める為に主人公を(作者が)コントロールしている”という作為が多少なりとも透けて見える恐れはあります。
作為を自覚的に見せているのではなく、見えてしまうというのは、物語においてあまり良いとは申せません。程度差はありますが、プレイヤーにとって、物語を読んでいる・物語に入り込んでいるという信頼のまなざしを崩してしまうものでもあります。


二つ目は、エロシーンが物語に対しどう機能するかという問題。一つ目もこっちの範疇ですけど。
例えば、爽やか青春純愛ストーリーにおいては、ヒロインと仲良くなったところでHする必然性があるのかと。例えば、極端な例えですけど、「耳をすませば」のエロゲ版があったとして、物語の改変が行われないとしたら、Hすること・そしてそのシーンを描写することは、物語にとって必要か?と。Hシーンが入ることで、爽やか青春純愛ストーリーに、一点の”それ以外のもの”が入ってしまう。それを是と取るか、非と取るか。ハレ一点に染め抜くより、ひとつケとなるような物が入っていた方が良いんじゃないか。いや意味が理解できないならば、それは機能不全を起こしていると同意なのか。←まあ実際の所は、記述されたことは全て意味がある(例えばどんなくだらないことでも、どんな無意味なことでも、「くだらない」という意味が、「無意味(が在る)」という意味が、最終的には生まれるわけ)ので、理解できないという感性のがダメじゃねという一言で切り捨てたいのですが、そりゃ受容の話に走りすぎなのでおいといて。
さらに言えば、そのHシーンの存在は何を意味しているのか。親密や性愛や成長の記号になっちゃってないか。
……ちょっと全体論と個別論がごっちゃ気味なので、一端戻して、つまりで纏めると。


エロシーンが、物語からの要求ではなく、「エロゲ」というジャンルからの要求で作られている(ように受けとめられる)場合は、物語にとって良い機能を成さないでしょう。エロ小説だから必然性が低くてもエロを入れざるを得ないなぁというのと同じく、物語を根拠としてある描写ではなく、ジャンルを根拠としてある描写になってしまうのですから。
エロがある必然性がない。Hするほど進展してない。物語全体から見て浮いている・意味を成さない。それでも、なぜHするのか。それは、エロゲだから。物語ではなくジャンルにその必然性が生じてしまう*1
そういう場合は、物語に対して、”在ることが逆効果”になってしまう可能性もあります。
正確ではないですが、例え話として。鍵ゲーで喩えれば、ONEもkanonAIRもエロなくていいとよく言われるのに、何故MOON.でエロ無くても良いと言われないのか。それは、物語にエロシーンが必要だから=物語の要求でエロがある(と、プレイヤーがはっきり分かる=エロシーンの(物語に対する)機能が明確である)からでしょう。(もちろんこれは例え話で、これ以外の答えもあるし見い出せる。構造面も受容面も)


で、全然足りないし随分乱暴に進めましたので話三割で読んでいただきたかったのですけど(先に書け)、とりあえずこれは構造の話で、受容の話はまた別。受け手が感じるもの、感動とか笑いとか、怒りとか悲しみとか、萌えとか。そういうのを、エロが阻害しているという場合もあります。さらにはその前段階(ゲームを認識・認知する段階)もあったり。つうか受容でそういうトコに文句付けるのはワガママすぎるので止めた方がいい。
勿論逆も然りで、エロシーンの存在が却ってそれらを高めているという場合もあります。
単純に引き算足し算ではなく、エロシーンが他に及ぼす機能はどうか、そしてそれが(足す引くどちらとも)上手く機能するためには、他をどういう形にすればいいのか、という問題も出てきます。
作品構造からすると、純愛ゲーの場合、エロを抜くことは可能。とはいえただ抜くだけでは別物になってしまうので、エロ以外で代替する必要はあります。そしてそれが出来る。受容からすると人それぞれ。あえて全てを語ると、エロ抜いたら別物です、で終わります。

*1:言うまでもありませんが、この文は物語とエロシーンに焦点を置いているので、実際はこんな単純な二元論ではありません。物語に根拠しつつジャンルにも根拠しつつ、さらに他の何か(キャラだのシステムだの)に根拠しているという場合もあります