作品は「おもしろさ」を表意していない


「面白いかどうかは人それぞれ」って言葉はよく聞くし、概ね正しい(「人それぞれ」をどの尺度で捉えるかにもよるけど)と思うのですけど、この一言だけだと、あまりにも淡白だし

「人それぞれ」というのは、『面白い作品』を面白いと読み取れる人とそう読み取れない人がいる。
こんな誤解を招きそうな気がするので、ちょっと補足的に一言。


作品は、「おもしろさ」も「つまらなさ」も表意していません。


細かいこと言うけど、大事なことだから。「この作品は面白い」とか「この作品はつまらない」なんてロジックは絶対に成り立たないのです。「この作品は(今の)自分にとって面白い」「この作品は(今の)自分にとってつまらない」というロジックだったら成り立つ。
当たり前なんですけど、作品そのものに「面白い」「つまらない」を表意している対象なんかは存在していなくて、見てる(読んでる)こっちが勝手に「面白い」「つまらない」を感じたり評したりしてるだけ。
面白いかどうかを決めるのは、作品自体じゃなくて読み手の方。
ちょっとざっくばらんに言うと、作品の中に「面白がれる要素・構造」「つまらながれる要素・構造」はあるように見えるんですけど、それがまんま「作品が面白い」という事に直結するかというとそうではなくて、間に読み手を挟んでる――つか、「面白がれる要素・構造」「つまらながれる要素・構造」の、”面白がれる””つまんながれる”の基準(意味)が、(読みの)文脈に依拠している。ある特定の読みの介在が無ければその要素も存在しないという時点で、作品そのものに在るモノとは言い難いでしょう。どんな小説でも詩でも物語でも、ありとあらゆる時代と社会と国の全ての人に「面白い」「つまらない」と言われたモノは存在しませんよね。なぜ存在しないかというと、あること(この場合「作品」)から、あるもの(この場合「面白さ・つまらなさ」)を読み取る機能は、その対象全てで固定されてるわけじゃないからです。これが常に固定であるなら、実質上作品に内在しているとも言えるけど、そうではない。

とある文脈を共有できる人間には面白いかも、みたいな限定的な表意はありえます、つうか大いにあります。けど、それは読み手(ないし書き手)に依拠しているものであって、(限定を取り外せば)作品が面白さやつまらなさを意味しているとは言いがたい。
「人それぞれ」というのは、『面白い作品』を面白いと読み取れる人とそう読み取れない人がいる、ではなく、『作品』を面白いと読み取れる人とそう読み取れない人がいるということ。