君の熱いハルヒダンスを見せて〜(やっぱりココで見↑せ↓て↑)


「俺が京アニ厨だ(ガンダムっぽく)」と宣言したくなるけど俺より京アニ厨な人は沢山いるからやっぱ出来ないけど心の中じゃ宣言しているぜって程度には京アニ厨な僕としては、昨今の涼宮ハルヒちゃん体操に関する論争(記事を取り下げると仰ってるからリンクは貼らないけど)に対して思うところが沢山あるんだけど、言葉を発そうとすると同意する所もありながらも全体的には姑じみたウルトラ細かいツッコミにしかならなくてそれを書いたら僕が僕自身にもにょってしまうので自重するのだけど、ひとつだけ。


踊るって行為と、ハルヒダンスの評価は、あんま相関しない。


アニメの踊ってるパートの評価がMAXになったから自分も踊る、なんて理論が存在してたら不気味。信仰対象になるほどの神々しい高評価だと言うのならなんか同一化しなくちゃ的な天啓でそういう行為に踏み込む人もいるんだろうけど(得てして事件を起こしちゃいがちなんだけど)、この踊りEDに関しては神格化されるほどの高評価を少なくとも僕の耳に入るほど大きな声で聞いたことはないし、そもそも件の記事の反論で「本編の方が凄い」と口をすっぱくして言われているように、あの踊りEDそれ単体では本編よりも評価は低い。
評価されていないってことは無いけど、たくさんの人を”評価”だけで踊りに駆り立てるほどの評価がされているとは、ちょっと思えない。


んじゃー何でみんな、より評価が高い本編の模倣じゃなくて、評価の低いEDの方の模倣を行ったのかと言うと、もう散々語られ尽くされてきた感があるけど、その要因の一部かなぁと僕が思うところだけを語るとすれば。
まず前提として、子供の頃・やったこと・あるよ的なモノから、大人になっても他人の成功体験を真似したがるように、人は他人になりたがるつうか模倣したがる面があって、単純に言えばカメハメ波とかアバンストラッシュの真似みたいなものなんだけど。
他人になる・模倣するというのは同一化願望だけじゃなくて。他人が○○をして成功した・楽しんでる・喜んでるというのは、成功や快楽への筋道が既に立証されている=真似すればそれを得られるかもしれないというのが保証されている。ハルヒにはなれないけど、ハルヒが楽しんでることの真似すれば、自分も楽しめるかもってのがハルヒによって保証されている(ように錯覚できる)みたいな。自分が多少欲しかった○○を友達が持ってると自分も異様に欲しくなるっていう心理の原理の半分くらいがそんなんで、ハルヒダンスがあんだけ広まった心理の原理の半分くらいは「自分が多少欲しかった○○を〜」の心理の原理と同じ感じかなぁと思う。


その前提を踏まえて。じゃー何でそれがあんなに露出・拡散したのかと言うと、ダンスにある一定以上の難易度があったということ・また一人では出来ない(不完全になる)というように環境にある程度の制約があったこと・Youtubeのような簡単に披露できる場所が存在したことで、それが芸として・見世物として成り立っていたから。

ダンスが簡単すぎない(複数で合わせることが前提なのでより)、複数人を集めなければ芸としての価値が低くなりやすいように参入障壁がある(テキトーに参加する人の足きりができる)、そしてYoutubeなどで簡単にそれを広めることができる(撮影も簡単)。
最低でもある程度の練習とスキルを必須とするし、音楽に合わせて複数人が(元ネタとも他人とも)シンクロさせながら踊るという娯楽性があるし、ついでに発表もその拡散も簡単。


アバンストラッシュの真似なんかとの最大の違いは、こういう、他者から見られるというのを前提としている芸・見世物(つうか芸とか見世物である最低条件が他者からの視点だと思うんだけど)として成立できているところ。

そもそものED自体が「他者から見られる」ということに非常に自覚的な構図で描かれていて、他者から見られるための模倣として再構築しやすいという点はあったでしょう。

OP・EDは本編と違って作中の視点を一切存在させなくても良い空間(神の視点すらも)なんだけど、そのことに自覚的で見世物としての視点=視聴者の視点だけしか存在させなかった、けれど作中での撮影かも的な軽い作品世界内視点との繋がりも匂わせてるこのEDはぶっちゃけそれだけで評価できるし、そのことが作品世界を離れた先で見世物としての再構築をさせる一助にもなったでしょう多分。らき☆すたOPはどうしても作品世界内の視点っぽすぎるモノが出てくるから、登場人物の外観もそうだけど、外の世界で模倣する際にオリジナルの呪縛が強くなる。


そして、楽しんでそのダンスを披露する人がいることで、より、そのダンスをする人が広まる。
楽しそうに何かをやってる対象というのは、あるいは何かをやってる人が楽しそうに見えたのならば、それは結構な模倣対象になります。だって、その人の真似をすれば、楽しめるってのが証明されてるんだから(実際にはされてないけど、錯覚的に)。
しかもそれが見世物として評価されちゃったりすれば、より伝播性は高まる。相対化も伴う承認は最も他者に影響するよねーとか思うんで。アイツにできるんならオレにもできる、アイツが認められるんならオレも、みたいな話で。わざわざ同じ土俵に立っちゃうんじゃないかとか、なんとか。


えー冒頭に記すような注意書きを最後に。この記事では、コミュニケーションとしてうんちゃらとかの別の視点をスルーしてます。これ以外の要因もいっぱいあるし、そもそもこの話だけでもグダグダじゃねえか、とか。そんな話。