エロゲは16:9になってどう変わるのか


TVアニメはしばらく前から、4:3の画面構成から16:9の画面構成へと作りが変動しつつありますが、エロゲにおいても、そういった画面構成の変化が見られ始めているようです。


エロゲーのワイド画面化について - Rewriteの16:9議論から
http://www.i-love-key.net/archives/2008/10/rewrite169.html(鍵っ子ブログさん)
Keyの『Rewrite』も16:9なんですね。


さて、4:3から16:9。単純に見た目が変わるというのは言わずもがなのことですが、それがプレイヤーに如何なる影響を与えうるのか? 私自身が16:9のゲームを未プレイなのでいささか想像により語る部分だらけではありますが、先立って4:3から16:9へと変貌を遂げた(遂げつつある)アニメを参考にその辺りを考えてみたいと思います。

描写空間の拡大・情報量の増加

4:3と16:9の最大の違い。まず何より「描写空間」に目が付くでしょう。


鍵っ子ブログさんの記事(http://www.i-love-key.net/archives/2008/10/rewrite169.html)の中ほど(「普通のディスプレイの人にとって16:9は嬉しくない?」項目の中ほど)に、同じ絵を16:9化したものと4:3化したものがありますが、それを見ると、両者の「描写されてる空間の違い」が目に付くと思います。


勿論、本来は構図から何からして、「4:3用は4:3用に描く」「16:9用は16:9用に描く」という点で、実際はこのように単純化できるわけではありませんが、しかしエロゲーのように、描くべき対象(キャラクター)が確固として在る(エロゲのCGの殆どは描くべき対象を描いている)絵に関しては、それが中心に置かれる(絵の中心という場所うんぬんだけではなく、CG枚数の問題的にも、描くべき対象を描くという指向が存在する)*1ゆえ、4:3より16:9の、描写空間の拡大、情報量の増加が生じます。


描かれるものが増えるとどうなのか

さて、16:9で表される絵と4:3で表される絵には、対象の違い以外に、どのような違いがあるのか。エロゲにおいて恐らくどの絵にでも通用するのは、上に示した「描写空間の拡大、情報量の増加」の部分だと思いますが、果たしてそれはどういう効果をもたらすのか。


1年ほど前の雑誌ですが、「メカビ」2007年秋号に、その辺について触れられたコラムがあります(もちろんエロゲの話じゃないです)。

コンテクストを理解し得ない層に、ただ一人の主人公を提示しても通用しなかったからだ。
だから、横長の画面へ、主体の他にたくさんのかじずく有象無象を描いた。(中略)
有名なダ・ヴィンチの『最後の晩餐』(一四九八年)も、キリスト以外のキャラクターたちを描くことによって、物語の効用を解説している。もし、トリミングしたキリスト一人をF的な画面に描いたとしても、それは『最後の晩餐』にならなかっただろう。(中略)
ゴッホは花瓶に挿された『ひまわり』だけを、ひまわりがどのような空間に配置され、どのような意味でそこにあるのかを一切説明せずに描いた。モネは『ルーアン大聖堂』(一八九四年)を、通り過ぎる信者たちもキリスト的存在を意味する抽象的アイテムも描くことなく、ただ光の反射をデザインする構造物として表現した。
(P.91/P.92「16対9の功罪=フィギュアの消失=」川崎昌平
色々中略しまくって何ですが、要すると、沢山のものを描くことによりそれが他の何か・あるいは全体のコンテクストとして機能する、ということですね。


そして、それは逆に、ひとつのものだけを描くと、(他にないから)それ自身がコンテクストとして機能し絶対的になる、という強度(「説得力」と換言してもいいかも。それ自身を文脈にすると、何かよくわからないけど凄い・圧倒的・威圧される、の、「何かよくわからない」が(他に参照するものが無い&作品がこの形として存在する以上)、何かよくわからないまま確かな説得力を持つ(作品を受け入れるのであれば))を失うことにもなります。


もちろんこれは、その対象となる「絵」以外に求めるものがない絵画に言えることで、絵の連続(アニメーション)であり物語組立てられていて音声もあり音楽もあり効果音もありカメラも動くアニメ、絵の連続とカメラの動きがちょっとだけ取り入れられてて後はアニメとだいたい同じくなエロゲに、そのまんまで適用できるものではありませんが、すこしばかり類似する部分もあります。


例えば、『コードギアス』。あの作品では、キャラクターの「画面いっぱいのどアップ」という絵が、結構な回数存在していました(私は一期しか視聴していないので、二期はもしかしたら違うかもしれませんが)。
その「どアップ」な絵は、どういう意味を持っていたか。そこだけ切り取ってみるのは勿論歪ですが、しかし同一画面内に、他に比較になるものもコンテクストになるものも存在しないという、その被写対象の絶対さは、その描写の意味確定に一役買っていたことでしょう。つまり描写の指示対象が単一であり、文脈も描写自身が補っており、多数の「なにか」を見せるよりも、意味が固定されるのです(意味が多様化しづらい)。


エロゲの16:9の「罪」(仮定)

では、エロゲの話。
そもそも、私自身がまだ16:9のゲームを触ったことがないので、憶測になりますし、当然そのエロゲがどんな物語なのか・どういう絵なのかで変わりますし、何よりそこを克服するなんらかの仕掛けが存在するかもしれませんが、エロゲの16:9――描写範囲の拡大・情報の増加は、他メディアのそれと同じく、複数対象を画面に入れることにより中心となる対象に何らかの影響を与えると考えられます。


ここでは、鍵っ子ブログさんでもご紹介している、『SIN 黒朱鷺色の少女』(http://www.studio-mebius.co.jp/software/SIN01/index.html)のデモムービーを喩えに(実際のゲーム画面じゃなくてデモムービーなので、あくまで喩え、仮定)していきたいと思います。


まず、イベントCGなどの「1枚絵CG」。



デモムービーからで、CGそのものではないので、あくまで喩えとして。


画面にキャラクター以外が入ることにより、キャラクター自体の意味が落ちる、かもしれない、とは思います……が、「かもしれない」。


『SIN』でもありましたが、1枚絵CGは、現在でも「カメラの動き」を取り入れることで、4:3以外のCGを4:3で描写するなどということもありますし、そもそもエロゲの1枚絵CGはそれ自体が強い意味を持つというより、あくまで補足的なもの(本当はあの世界では立ち絵CGの時も1枚絵CGみたいにキャラがデフォルメされてなくきちんと存在してるんだけどそこまで描写できないから、特別に何箇所かだけ1枚絵CGとして本当の姿を見せてるよ的な、あるいはその逆)という異質なものであり、だからこそ文脈はそこ以外にしかりと存在するという、ちょっと特殊なものなので、上の文は「かもしれない」。

こうやって文脈関係なしに「絵」だけ見れば、キャラクター(対象)以外の情報が増えることにより意味・印象の拡散が行われ、結果キャラクター(対象)の意味・印象が規律されない・薄まる可能性は存在します。もちろん文脈なしなんで、こんなことは参考としても不確実なのですが。





これもまたデモムービーからで、多分「立ち絵」はこんな感じになるのかなと思い取り上げただけで、あくまで喩えです。仮定です。仮定でお前どんだけ言うんだって感じですけど、まだ発売されてないし、まともなものは発売後ということで(そもそもワイドディスプレイ買わないと)。


こちらの方が、見せ方で調整可能な1枚絵よりも、描写範囲の拡大・情報の増加は際立つのではないでしょうか。人間らしい身体というのは、めっちゃ横長ではないのですから、「横」の描写範囲が圧倒的に広がる16:9では、どうしても4:3よりも「横」にスペースが出来てしまいます。
キャラの胸から上を立ち絵として描写するなら、恐らく上の画像くらい。腰以上や全身など、それよりもっと広範囲を描写するなら、さらにスペースは広がるでしょう。


これは1枚絵よりも目立つでしょう。キャラクター以外の描写対象が増えることにより、指示対象が分散され、キャラクター自体の印象が薄くなる(これは、ある特定のキャラクターと親しくなるという恋愛ゲームにおいては、結構大きな意味を持つ)。さらにテキストや音などの文脈が、画面一杯にキャラクターが表示されている時なら、そのキャラクターだけに向いていると何も考えずに受容できるのに、他のものが写れば写るほど、そこにも向いてしまう――あるいは、その他のもの自体が、文脈として作用するに相応しくなくても、そのように機能してしまう。


や、上に引き続き、「かもしれない」なんですけど。あくまで仮定(しかも実物ないし文脈ないし)なので。


しかし、描写する(される)ものが増えるということは、それだけ意味も印象も意味を規律する文脈なども分散される(だから弱くなる)という可能性も孕んでいることは確かでしょう。


エロゲの16:9の「功」(仮定)

と、なんかまるで16:9になったらよくないんじゃないかみたいなことばっか書いてきましたが、いやいやそんなことはありません。


先に引用したメカビのコラムでも書かれていたように、

有名なダ・ヴィンチの『最後の晩餐』(一四九八年)も、キリスト以外のキャラクターたちを描くことによって、物語の効用を解説している。もし、トリミングしたキリスト一人をF的な画面に描いたとしても、それは『最後の晩餐』にならなかっただろう。
描かれているものが増えれば、それを含めて「全体」とした上での新たな意味が創出される


キリストだけ描いた『最後の晩餐』(がもしあったとして)という絵から見い出される意味と、他の人物も描いた現存する『最後の晩餐』という絵から見い出される意味の違いの理由は、描かれているものが異なり、そして後者は色んなものが描かれてるからそれを加味した上での意味が創出されているように、エロゲにおいても、描かれているものが増えればまた異なる意味が創出される。





例えば、ワイド画面なら、別に↑が実際に作品で用いられるCGではありませんが、喩えとして、こんな具合に、一画面に今までよりも沢山のキャラクターを表示できたりします。


4:3では一画面に二人、三人が限界ギリギリ、四人以上とかかなり無理がある描写でしたが、ワイドならば可能かもしれない。例えば群像劇的なものなどは、より豊かな表現で作り易くなるのかもしれない。あるいは背景なども、これまでは物語の舞台(の一部)となるけど描ききれなかった場所すら描き込めるかもしれない。また端っこに小さいウインドウを出して、そこに小物やアイテムなどを表示させるのも、今までよりも(スペースが広い分)やり易くなるかもしれない。


つまりは。


描写する(される)ものが増えるということは、それだけ指示対象が増やせるということで、それだけ意味も印象も意味を規律する文脈なども増やせるということ


まったく、前項に書いたことの裏返しですが。特徴は、短所にもなるし長所にもなる、ということでもあります。


■追記


なんか重要なことを書き逃しまくってる気がするので。
エロゲの「立ち絵」ってのは、抽象的な表現なんですよね。見ればわかるけど、全然写実じゃなくて、状況をデフォルメして表現した示唆的ってか補足的な記号です(だからテキストの方が普通のノベルゲームでは上位に立ってるわけなんですね。テキストの方がよっぽど正確・誠実だから)。
しかもその上、非連続的。シーン・場面・時・タイミングで、「絵」だけだったら連続性無く変容することが出来る。
そこが「絵」として見た場合の、アニメの「絵」なんかとはちょっと違う点でしょう。立ち絵自体も意味を生成するけど、あくまでテキストの従的立場なんです。立ち絵だけじゃ、テキストっていう投錨がなきゃ何も分からないですからね(無論それを逆手に取った特殊な演出もありますが)。
本質的には、テキストが絵のコンテクストじゃなくて、絵がテキストのコンテクストになるのです(プレイヤー:ゲーム間において)。
僕は別にテキスト上位主義ってわけじゃないけど、でも現状の(立ち絵の)システムだと、テキストの方がどうしても上にくる。ということは、現状のままであるとするならば、そこにおいて絵に求められるのはテキストの補強・補足的な機能であり、そういう点では、16:9という、描写できる対象が増える・拡散する枠組みにおいては、今までとまるで同じに描いても、プレイヤーに今までとまるで同じ経験はさせられないだろうと。
上では「「絵」そのものの表意に関わる、その「絵」内のコンテクスト」みたいなことを書いてたけど、そうじゃなくて、現状ではもういっちょ階層構造ですね。「絵」そのものの表意というのが、基本的にテキストに規律されテキストを補強するものであるから、だからこそ、4:3の方法を16:9にそのまんま敷衍させると、無くてもいいものが増えることもっと強く在るべきもの(アップとか)が弱くなることという、絵とテキストの関係におけるマイナス面――勿論、使いように依ってはプラスになる――が生じてしまう。


■追記ここまで


とかなんとか言いつつ。まだ取り上げた作品は発売前だし、16:9未プレイだし、16:9が普及し出しても16:9に最適化された絵・演出・物語が出回るのは当分後のことだと思うので、まあなんというか仮定の話ってことで、こんなこともあるかなーとかなんとか。そんな話です。

*1:状況整理の為のエスタブリッシュメントショットのような、「経路の繋ぎ・維持」にあたる指向の絵が殆ど存在しない、てゆうかそういう絵があっても、CG枚数的にも(CGという時点で)それ以上の強度を持ってしまう(いわゆる「立ち絵」は別物。この辺はいずれ補足します。たぶん)。