フィルターと認識と枷 「スクールランブル」勘違いと繰り返しの理由


こないだから読み始めた漫画「スクールランブル」、ようやく単行本19巻まで読み終わりました。
まだ途中までしか読んでいないので、ちょっとズレたこと言うかもしれませんが、その辺はご容赦下さい。


で、本作。感想とか書いてみたいんですけど……本当に難しい。この漫画、異常なほどに入り組みすぎてて掴みづらすぎてて、考察するとか語るとか以前に、感想書くことすら難しいです。
ただ、それでも、一つだけ語り口を見つけました。15巻まで読んだ時点の感想(http://d.hatena.ne.jp/Nota/20080606/1212688645)で、「繰り返しが多い」「勘違いとかで同じようなことを繰り返す」と記しましたけど、その正体がわかりました。


ヒントは最初期から存在していました。




「播磨アイ」。


「♭04 HAUNTED」より(単行本第2巻の150ページ)。

知ってるのよあなたの秘密――
「自分のことが好きな異性の心が視える」こと
月齢周期で力が強まるのよね?
……世界にはそういう「枷」をはめられた人間がたまにいるの
(中略)
視えるからこそわかるの…
皆にも色々な枷があって
それでもがんばってる


『語り手』、認識、枷

小説において、『語り手』という概念があります。いかなる物語も、記述されない限り受け手には認識できない以上、その記述――語りというものがほぼ必ず小説には存在し、それを語る者(記述する者)=『語り手』が存在します。
誰目線で小説の文章が書かれているか、”その記述(語り)は誰によるものか”ということを理解する為の考えです。
語り手が物語世界内にいる(物語の登場人物の一人である)場合を「一人称の語り」「物語世界内的語り手」、
語り手が物語世界内にいない(どこにも登場しない人物、人物ですらないかも)の場合を「三人称の語り」「物語世界外的語り手」などと呼びます。後者は神のような視点というか、物語世界のことを何でもわかっている場合が多いので、「全知の語り手」とも呼びます。
一般的には、この二種類に分けられます。


例を挙げれば、『涼宮ハルヒの憂鬱』はキョンという作中人物による「一人称の語り」、『狼と香辛料』は殆どが作中の誰でもないモノの語り、つまり「三人称の語り」、といった具合です。
語り手は、一作品中に何度も変わっていくことがあります。常に三人称である、常に固有の誰かによる一人称である、とは限りません。『狼と香辛料』なんかは、稀に作品世界内の誰かの一人称の語りのようなものが入りますし、鮮明な所で『夜は短し歩けよ乙女』なんかは、一人称の語り手が数ページ毎に交互に入れ替わっています。
語り手を知れば、誰による記述かということが分かるでしょう。


その記述は誰の手によるものだ、ということを理解すること、つまり「『語り手』を意識する」読み方は重要です。
なぜなら、「三人称の語り」は先にも記したように、全知である立場に居ますので、その記述された情報の信頼性が高いのですが、「一人称の語り」はあくまでも語り手の主観によるものなので、その記述された情報が、語り手以外の人物にとって正しいとは限らないのです。
ただこれは、逆から読みますと、どんなに荒唐無稽なことでも、語り手にとってだけは(ほぼ)絶対に正しいと言えるでしょう*1



「語り手」という概念を意識することが、スクールランブルを読み解く一歩になるのではないかと思います。
先の「播磨アイ」なんかはそうですね。あれは播磨による語り、すなわちあれは播磨による主観であることを表している。
あの絵は真実の姿を写しているのではなく、播磨フィルターを通した絵を写しているのです。




例えば18巻11ページのこの箇所。
これは一見、「真実の沢近」を説明しているかのように思えますが、本当はそうとは限らないのです。なぜなら、語り手が八雲だから。
ここで語られているのは、八雲が思う、八雲に視えた、八雲が認識した「沢近」であって、この語りが、どれだけ沢近の分析として正しいのか定かではないのです。




「私の中の花井と……皆の中の花井はこんなにも違うのか」
この18巻63ページで語られているのと同じ。
八雲にとって沢近は、上に記したようなものではあるけれど、播磨にとってはそれとは異なる認識だろうし、天満にとってもまた異なる認識だろうし、当の沢近本人にとってみても、また異なっているでしょう。


つまり、人それぞれ認識が違うということです。
――そして最も重要なのは、それでも、彼ら・彼女らにとっては、その自身の認識が「真実」だということ*2


八雲にとっての沢近はアレで真実だけど、播磨にとっては播磨自身の認識が真実だし、天満にとっては天満自身の認識が真実で、そこに他者の認識は介在していない。「私の中の花井と皆の中の花井の違い」というのもそうですね。美琴にとっての花井は皆にとっての花井とは違うし、皆の中にだって、別々の花井が形成されている。だから、花井を好きな娘もいるし、ちょっかい出したがる人もいるし、堅物でダサいと思ってる人もいるし、頭良いと思ってる人もいるし、メガネだと思ってる人もいる。
ある物事に対する認識は変化する――それらは流動的ではありますが、しかしながら、現今の彼ら自身にとっては、その認識こそが真実なのです。
それは播磨の「播磨アイ」や、八雲の「心が視える」も、実は同じ。
他人にはそう見えなくても、他人にはそんなもの視えなくても、自分にはそういう風に認識されるのなら、自分にとってだけはそれは真実なのです。


「自分にとってそうである」という『認識』は、それが真実であるがゆえに、心の声が認識できるという枷と同じ様に、自分にとって越えられない『枷』になる、とも言えます。

視えるからこそわかるの…
皆にも色々な枷があって
それでもがんばってる
(「♭04 HAUNTED」より)
自身の認識は、良い悪いをおいといて、それに縛られてしまうという意味では『枷』と言える
例えば八雲を好きという花井の気持ちも、彼自身にとってはある意味『枷』。手ごたえがあるわけでも八雲に好かれているわけでも何でもない。それでも、八雲を好きという気持ちが終わらない以上――その認識の枷が外れない以上、その枠内で生きていくしかない。その中でがんばっていくしかない。


何でこの作品は、何度も同じことを繰り返すのか?

播磨なんてすぐに天満が自分のことを好いていると思い込むし、沢近もポンポン勘違いするし、天満は全然気付かない。
なぜ彼らは、思い込んで勘違いして気付かないのか。それは、そう認識してしまう人間だから。そういう『枷』を持っているからなのでしょう。


とはいえ、認識というのは、いつでも流動的。物の見方も、人の捉え方も、出来事の理解の仕方も、誰かを好きだと認識することも、誰かを好きではないと認識することも、認識する立場の者――『自分』の変化により、どんどんと変わっていきます。
例えば……えっと、まだ19巻までしか読んでいないので、的はずれかもしれませんけど、例えば播磨の思い違いなんかも、だんだんと和らいでいっています。「播磨アイ」なんて美化も、後半はあまり見受けられません。
認識という『枷』は、常に変化していきます。しかし、変化しただけで、『枷』が無くなるわけではありません。思い込みという枷が無くなったということは、思い込まないという枷が出来上がったことも意味します。その中で、八雲が言ったように、どう「がんばって」いくのか。それこそが、この作品の〜〜……って言いたいんですけど、まだ途中までしか読んでないので保留いたします。連載分まで追いついたら続きを記そうと思います。

*1:稀にそこを突いて一人称嘘吐き語り手とか出してくる小説とかありますが

*2:もちろん己の認識を自覚的に疑う場合もあります