一期と違って分かりやすくなってるかも 「ひだまりスケッチ×365」


第一期は、1話ごとも、全体を通しても、主題の提示がかなり薄かったのですが、今回の第二期、少なくともこの第1話に関しては、驚くくらい分かりやすくてビックリです。



モブキャラがもはや人間として描かれないというのは第一期からある描写。あくまでも、ゆの達ひだまり荘面子の「主観」から描いているとすれば、こういう描き方は正しいと言えます。「自分に関わりある人間・関わることになる人間以外は『人間として描写されない』」。自分の受験の時でも思い浮かべれば当然のことで、名前も知らないしこれ以降も知ることにならない同じ教室に居ただけの人間なんて、個体識別できるレベルの濃度で覚えているわけがない(他人から見た「自分」も、そうなのですけど)。つまりそれは、人間だと分かる記号で描写するだけで、事足りてしまう。
酷なようですけど、主観を基にすれば、記号で十全になってしまう



そしてだからこそ、そこに孤独が生まれるのでしょう。顔の無い人間が集合する場に打ち立てられた顔のある自分――記号以上に認識できる存在が自分しか居ないという意味で生まれる、孤独。



その孤独は、後に瓦解します。「宮ちゃん」と呼んで応えてもらえた後の描写。顔の分かる他人が出来た(親密になれた)ことによる、孤独の崩壊です。これが意外に分かりやすくてビックリ。


こういった、「関わらない他人を描かない」というのは、先にも記したとおり第一期からあって、例えば第2話の棒人間描写なんて印象深いのではないでしょうか。

この描写に対し、作品側から明確な答え(っぽいもの)が示されることはありませんでした。(ひだまり荘の)自分が記号で示されない立場に在る、(ひだまり荘の)相手が記号で示されない立場に在る、という、この親密さのかけがえのなさを加速させるような意図でこういう描写なんじゃないか、とか思うくらいは出来ましたが、根拠は薄かった。
ですから、今回のこの、丸分かりなくらいの主題の提示には、ちょっと驚きました。第一期は本当に逆で、主題探しが作品よりも自分の妄想に依らざるを得ないくらい(主題が)分かりづらい場合が多かったですから。主題以外の部分でも、第一期に比べて、全体的に、整理されている(=視聴者の認識を意識している)ように感じられました。
まだ第1話ですから、しかも第一期が真逆でしたから、予断は許されませんが、もしかしたら第二期は「分かりやすい」方向性に持っていくのかもしれません。


「×」マークが持つ意味も、引越し時のトンネルの中の描写(希望)、EDにおける扱われ方(ゆのの記号)、つまりゆのの希望の象徴みたいな意味であることが、分かりやすかったです。時折挿入される「×」マークに「っち(ゆのっち)」が加わったこと、色が変化したことなども、その希望がこれに依拠している感を出していると思います。タイトル(×365)も絡んで考えることも出来そうです。