いろんな読み方ができる 「AURA 〜魔竜院光牙最後の戦い〜」


ようやく田中ロミオ『AURA 〜魔竜院光牙最後の戦い〜』読み終わり。これってなんか色んな解釈できるよね〜って思った。


以下ネタバレ。



途中までは、邪気眼が自己顕示欲発露を正当化する道理でしかないということに気付き自己嫌悪と過去の切断を行った元邪気眼少年が現役邪気眼少女に出会い、彼女に昔の自分を投影してそれを救うことで自己救済されたり、邪気眼から自己顕示欲を引いた後に残る、他者の視線関係ない純粋な自己実現(他者の視線ではなく自己の視線で「剣士になりたい」という羨望、みたいな)として異世界キャラクターに成りたいという、持つには大きすぎる自己実現目標を持ってる良子(一郎に出会わなければ恐らく登校することもなかったように、誰にも発話しないように、自己顕示とはかけ離れている)に対し”現実”サイドに移行した一郎が抱く自省やら希望やらうんたら、みたいな話になるかなと読んでたし、そういう読みも可能だけど、なんか他の読み方も許容しているよねと途中で思った。

「本物」だったかも・「本物」になれたかもしれない佐藤良子

クラスのドリームソルジャーたちと良子との最大の違いは、前者が自己顕示マンマンな他者の視線を前提とした邪気眼であるのに対し、良子は自己顕示ではなく自己実現邪気眼であったというところ。他人から「異世界人やら超能力者やら未来人やら宇宙人やら、なんかスゲー能力とか事情とか背景とか持ってるヤツ」と見られたいのではなく、自分から「なんかスゲー能力とか事情とか背景とか持ってるヤツ」と見られたかった、つまりマジで「なんかスゲー能力とか事情とか背景とか持ってるヤツ」に成ろうとしていた。
というか。良子は、もう既に、ある程度、「なんかスゲー能力とか事情とか背景とか持ってるヤツ」に成っていた可能性がある。自己実現してしまっていた。あるいは本当にそう――”本物”だった。
一郎が語り手となり、色んなことを一郎視点で「設定」「妄想」と唾棄するという誘導があるからこっちもついつい良子のことを邪気眼的なるものと認識してしまうけど、「設定」「妄想」と実証されてないものも沢山あるんですよね。
例えば夜の校舎に出てきたモヤの敵とか。10秒後に転送とか。声帯模写とか。それを偶然とか技能とか追求しなかったりとかで一郎は結論付けてるのですけど、その一郎の結論が正しいといえるほどの材料はないわけです。本当に転送してきたのかもしれないし、本当は杖が喋ってるのかもしれない。
良子は「本物の転生戦士」であった可能性もあるのです。一郎の最後の妄想、この世界で普通に生きることに決めた転生戦士というのは、まんま良子に当て嵌まってしまう。もちろん、それも実証されてません。
「本物」であったかもしれない・「本物」になれたかもしれないを前に、一度ははしゃぎながら受け入れるも、現実(いまここの一郎にとっては教室コミュニティ)においてはあっさりと拒否する。

夢オチ説

他にも「お金」とか「(神殿の)机はいつどこから持ってきたのか」とかとか、良子に関して様々な疑問点がありますが、そもそもお話自体に疑問点とか都合の良い感じがたくさんあります。
いや、都合が良いというか、「出来すぎ」って感じ。

ごく普通の少年が、謎を持つ少女に出会って彼女を助けて必要とされて恋に落ちる。周囲で起きた衝突も最終的には大団円。家族ともクラスメイトともみんな和解。実はみんながみんな邪気眼的妄想持ちで、一郎くんの過去の価値は貶められすぎず、かつ現在はそれを超克したという一段高い場所に立っちゃいました。謎を持つ少女の謎の力は失われたけど、実は彼女には屋上の神殿を作っちゃったようなもの凄い才能が秘められてました。

……あまりにも出来すぎですよね。邪気眼・普通人の間を揺れ動くありふれた名前の佐藤一郎の周りに居るキャラも、ありふれた名前の邪気眼持ち&ありふれた名前の普通人で埋めて、彼の流動可能性を際立たせてますし。あまりにも出来すぎなので、一瞬、「中学時代の一郎くんが屋上から帰還直前に妄想した『もし普通を目指した高校生活を送れたら』という夢想」がこの本のオチなのかと空想してしまいました(もち、「そうであってもおかしくない」ということ以上の根拠はないっす)。

空想や物語の敷衍が繋がる現実

それはともかく、

ごく普通の少年が、謎を持つ少女に出会って彼女を助けて必要とされて恋に落ちる。周囲で起きた衝突も最終的には大団円。家族ともクラスメイトともみんな和解。実はみんながみんな邪気眼的妄想持ちで、一郎くんの過去の価値は貶められすぎず、かつ現在はそれを超克したという一段高い場所に立っちゃいました。謎を持つ少女の謎の力は失われたけど、実は彼女には屋上の神殿を作っちゃったようなもの凄い才能が秘められてました。
これって、まんま『ライトノベル』なんですよね。
ボーイミーツガールと立ちはだかる困難とそれを乗り越えて(特にガールが隙のある能力者でクール気味のボーイが庇護しまくるとこ)最終的にはヒーロー。妄想設定の才能を失っても実は現実上の才能が秘められていたように、「特別」で在り続けることは断固維持。

現実と戦う、現実に生きるといいながら、その現実はライトノベル(空想・物語)が敷衍されている


空想や物語が敷衍されているこの現実は、久米の「世界に不思議なことはあってもいいんだ」を許容するか否かの問いかけでもあるでしょう。
「不思議」を計る概念は、同時に対となるもの――「普通」を計る概念にも繋がります。「不思議」は「普通」ではないし、「普通」は「不思議」ではない。


この物語で起きた出来事には、説明されてないことが沢山あります。都合が良いような巡りあわせ――出来すぎなことも沢山あります。それは「不思議」といっても過言ではないでしょう。
しかし、それが続き、それの地続きが日常を作り出しているこの物語においては、その連続は、「普通」に転化するのではないでしょうか。つまり、彼らなりの現実に繋がっていく。空想や物語の投影である自身の邪気眼設定が、彼らの現実と切断しきれていないように。


「不思議」、あるいは邪気眼などの「自分で作り出したニセモノの不思議」。作中の彼らが、そんな一回性の連続が日常性――ひいては(彼らの認識上の)いまここにある「現実」に繋がることを、物語の中で実証してるように。




アウラ』という言葉には、ざっくばらんに言うと「いま・ここ」「一回性」という意味がありまして、それはどちらかといえば作り手を主観においた作品認識から成立した定義の言葉でありますが、拡大解釈して読み手の立場で(だけで)「いま・ここ」「一回性」を捉えることもできるでしょう。
本は何度でも読めますし、何度でも思考しなおせますが、その時に感じたことも考えたことも、そのとき限りの「いま・ここ」であります。これは再読の際にもいえます。再読の際に感じたことも考えたことも、その再読のとき限り。次に読み直した時はほんの少しだけでも確実に違ってくる。

いろんな読みや解釈が可能なのに、しかも共存不可能なものばかりなのに、どれも正当とも非正当とも取れないこの物語の読みや解釈は、そのときの読みや解釈を大事にする、それだけでいいんじゃないか、それ以上も以下もないんじゃないか、と、僕はそんなことを思ってしまいました。


というのが、一度読んだだけのいま・ここの時点で思ったこと、感じたこと、考えたこと。もう一回読んだら、多分また違うことを思い、感じ、考えるでしょう、きっと。