ゆきてもどらず、ゆきてもどらず、もどれずゆきて らき☆すたOVA


往きて戻らず、往きて戻らずを選択し続けた結果、もう戻ることも叶わず往くしかなくなり、そして出来上がったのが、この『らき☆すたOVA』。……そんな印象を受けてしまいました。個人的には、もの凄く感慨深かったです。


先に書いとくと、この記事は全部、印象論でのお話。印象以外の根拠ないよー。



らき☆すた』の舞台設定やキャラクター(その内面も外面も)は、原作漫画もアニメも殆ど変わっていないように見受けられます。またお話の大きな流れなども、さして変化がないように思えます。アニメオリジナルのエピソードは幾つもありますが、それは原作で「語られなかった(描かれなかった)だけで、原作でもちゃんとそういう出来事はあったんだよ」と言われば、そうかもと思えてしまう具合です。

それなのに、今はもう。アニメ「らき☆すた」は原作と全然異なるように見えます。このOVAに至っては特に顕著。


勿論、漫画とアニメという媒体の違い&作り手の違い&受け手の受け方の違いがある以上、どんなに似せて作っても原作とアニメが異なるのは当たり前なのですが、とはいえアニメ版第1話なんかは、今と比べれば全然原作に近い感じがしました。あくまでも、このOVAやテレビ版後半のお話と、第1話を相対的に比べてみた場合。

どうしてそう感じるのかが分からないので、あくまで印象でしか語れないのですけど。つい先日、第1話〜10話くらいまでを見返したのですけれど、なんかどんどん原作と異なっていく感じがしたのです。

それは例えば(原作と同じ・同じに限らず)エピソードの選択とか配置の仕方とか、あと「間」とか。それらが、だんだん変容していってる感じがあるのです。アニメオリジナルのエピソードが、どんどん印象的なものになったり(例えばパエリヤとか修学旅行とかですね)、またお出かけやイベント・学校行事などの”全体に占める割合”が原作に比べ非常に多くなってたり、あと「間」の話ならば、第1話なんかはかなりの部分が一定の間・テンポで保たれていた感じなのですが、回が進むにつれ、その間・テンポの抑揚・コントロールが、随分と一定からはずれてきたように感じました。これは一つのエピソードの中でのキャラクターの言動だけではなく、それより、エピソードとエピソードのつなぎ方の方に顕著な感じがします(感動話の後に日常話を差し込むところとか)。
いやもうホント、あくまで私の印象なので、これとは違った印象を持ってる方も多いと思いますが。
そう感じました。


上に記したことが、そう感じる(原作と異なるように感じる、それが回を重ねるごとに強くなる)理由として大きな意味を持ちえるのかどうかは分かりませんけど。しかし、設定やキャラクター・大筋の話の流れ(雰囲気)はおおよそ同一なのに、ここまで違って感じるというのは、そこ以外のこういった部分の変化に拠る所もあるのでしょう。
それは、本編中なら「頭文字Dパロディ」のような(原作ではありえないほどの)手の込んだネタの見せ方や、またオープニングの歌&ダンスや、毎回終盤に差し込まれる「らっきー☆ちゃんねる」という本編とは激しく切断された1コーナー、またそれと関連した白石稔今野宏美の実写EDや歌(これもまた本編との関連は非常に薄い)などにも表れているかと思います。


■あなたは『らき☆すた』の痛い悪ふざけに耐えられるか?(どらみそら。さん)
http://d.hatena.ne.jp/luxaky/20070723/p1


らっきー☆ちゃんねるや実写エンディング、白石みのるなどもそう。原作と乖離した、悪ふざけと見られかねないほどの強い自己主張を「繰り返していた」。アニメと絡めたCD(こなたとパティ、ED曲CDのような)などの関連商品も、加速度的に増えていった。
1回だけとかじゃなくて、繰り返し繰り返し、どんどんどんどん、そういう選択を(結果的に)選び続けてきたわけです。
そういった物事の全てが、アニメらき☆すたが、当初(第1話)のらき☆すたから乖離していくことの因となり、また漫画らき☆すたからも乖離していくことの因となった。
本編に纏わる部分・その外周を成す部分、その様々な部分において、原作と断固同じにする「だけではない*1」選択肢を選び続けてきたからこそ、この『らき☆すたOVA』はこういった形なのでしょう。


あくまでも印象論ですけど。今回のOVAに収まっているエピソード、アニメ『らき☆すた』としてはそれなりに「らしく」感じましたが、原作漫画『らき☆すた』としたら、ちょっと「違う」くらいに感じました。特に最後のお話なんかは、その話も見せ方も、原作漫画だったら絶対にないだろうというくらい思いました。




でも、アニメ『らき☆すた』だったら、これは十分ありえるな、と思う。ちょっと風変わりだけど、これはこれで、アニメ『らき☆すた』らしいな、と。

そう思えるのもきっと、ここまでのアニメ『らき☆すた』が、こういうものだったからでしょう。アニメ『らき☆すた』は、この話を、ちょっと風変わりくらいで許容できるような作品だった。
最初は原作に近い感じだったものが、オリジナルなお話や、その配置の仕方や、独特の間やテンポや、実写EDやらっきー☆ちゃんねるや、または関連商品や話題などの作品外周部、そういったもので、だんだんと原作と乖離していき、それでも1話の頃に戻ろうとせず(原作に戻ろうとせず)、そういう選択を繰り返した結果、今ある『らき☆すた』が、私にとっては、原作と全然異なるもののように見えるようになったのかな、とかなんとか。そんな話です。



個人的に、これは好みだし、非常に高く評価したい。
原作付きアニメが原作の従に収まらなければならない必然性は、決して存在しないと思う。原作付きアニメが、原作があるからといって原作に従属するテクストでなければならない必然性はどこにも存在しない。原作を改変するなら原作付きアニメにするな、オリジナル作品にしてしまえという声もありますが、それよりは寧ろ逆に、原作と異なる原作付きアニメの方が価値が(意味が)あるのではないでしょうか。媒体を変えた模写よりも、先行する原作を前提としつつ独立した作品の方が、どちらを読解する際にもよほど見えてくるものが多いのではないかと個人的には思うのです。今回のように独自の方向性に舵を取り、取り続け、その結果このようにアニメ版が独立的になることは、あくまでも個人的には評価したいし好ましい。おわり。

*1:必ずしも原作に沿わないとは限らなくて、原作絶対遵守では無いというニュアンス。