「ゆっくり浸かっていって・・・やっぱ帰れ!!!」を評した結果がこれだよ!!!


■ゆっくり浸かっていって・・・やっぱ帰れ!!!‐ニコニコ動画(秋)


この動画が何かすげー素晴らしかったので誰も望んでナイだろうけど何か書いた結果がこれだよ!!!
なお僕は東方を全然知らない=キャラクターの名前も全然知らないので、「なんか樹生えてるヤツ」「巫女のヤツ」とか適当に記すけど気にしないでね。


描写の細かさ

繰り返し視聴すると、様々な点で「発見」をすることになるでしょう、というくらいにこの動画は「細かい」。僅か30秒、13カットの動画とは思えないほどです。



開始2秒の所。よく見ると、勢いよく開け放たれたふすまが、反動で少しだけ戻っているのがわかる。



4秒の所。先ほどテーブルに吹き出したお茶を吹いている動作が、さりげなく挿入されている。



上の直後。なんか頭から樹生えてるヤツが猛スピードで向かってきて急停止するのですが、その「動作の所作」が、一時停止しながらだと分かるのですが、早い段階での方向転換による減速と、髪の毛・なんか頭から生えてる樹もそれに伴い動くなど、非常に細かく丁寧。



そういう描写の細かさでは、この10秒ほどの所も見逃せない。まるで百鬼夜行かのようにゆっくり変化どもが室内を徘徊する風景なのですが、それがよく見ないと気付かないくらい非常に細かく描かれている。髪の毛・飛んでる奴の羽・歩いてるヤツの脚・きもんげの耳や無駄な乳揺れなどに注目していただきたい。



「見るたびに発見のあるような細かさ」の、何が評価できるかといえば、まずは「一回性の担保」という面においてでしょう。
一回見ただけで全てが発見されるのであれば――二回目以降の視聴も、初回の視聴と同じであり、その視聴体験は強度を失う(見落としがちな点ですが、二回目の視聴は、「二回目の視聴」という固有の一回性を初回とは別で持っている)。いや、さもすれば、初回の視聴体験すら二回目に牽引されて、その「一回性」が強度なき普遍的なものへと墜落してしまうかもしれない。
「細かさ」は、その点を緩衝する――視聴体験の豊饒を作品内に上乗せしているのです。


描写の誠実さ

次に、内容に関して言及いたしましょう。
ただ、先にも記したとおり、僕は東方を全然知らない(また湯名人も全然知らない)ので、原作あるいは二次創作において、この登場人物達がどんなキャラクターでどんな関係性を持っているか、その選択や登場にどんな意味があるかを知らないので、正しくは語れないであろうことをご承知いただきたい。
二次創作(あるいは二次創作のさらに二次創作)である本作を、ハイパーテクスト性も間テクスト性もガン無視して語るのですから、当然おかしな言及もあると思います。あくまで「この作品だけを見た者の言及」ということを念頭に置いていただきたい。


話の筋としては、「ゆっくり」たち(&ののワさん)が巫女の家にやってきて、なんか風呂入って幸せな感じになりながらも、熱湯に浸かりすぎて溶けてしまう、といったお話。

話の筋だけだと、何故ゆっくり達が、こんなにまでして他人の家の風呂に押しかけて、ここまでしてみんなで狭苦しく湯船に浸かるのか、といった疑問が生じますが、それが僅か4つの絵(+元ネタ&歌が湯名人)で説明されています。






一人で入っている時より、複数でまるでおしくらまんじゅうのように入っている状態の方が、――その二つの状態にある差異が「笑顔」「バックの星が上へと昇る」の二点――であることからも、幸福そうに見えるでしょう。つまり狭苦しい状態に対する指向が見受けられる。
また下の二点は、「狭い所にすっぽり嵌るゆっくり」「水がある(あるいは本来あるべき)ところに嵌るゆっくり」という図ですが、これは見ても分かるとおり”それまでの流れと分断されながら挿入されている”カットであり、そしてそういうカットは”確実に恣意性を前提として存在している”カットであるがゆえに、注釈的な意味合いを有します。この場合は、現在のゆっくりたちの状態――狭いお風呂にぎゅうぎゅう詰め――を、この2点のカットで、補足説明している、肯定的なものにしていると言えるでしょう。

行動の動機・整合性を、これら絵だけで、しっかりと説明している。



また、ゆっくりだけでなく、巫女さんの方も、絵だけで行動の動機・整合性の説明を成しえているでしょう。

冒頭の「(ゆっくり登場で)お茶を吹く」という反応(=驚き)、ゆっくり百鬼夜行時の「うろたえる・驚愕する」ような反応、


うなだれて廊下を歩く姿、

いわゆるレイプ目と二度見(これはもの凄く良く出来た描写で、風呂にゆっくりどもが居ることが分かってる&自分の家の風呂が何処にあるか分かってる状態でありながら、その風呂場を「二度見する(最初から注視していない)」のは何故かと言うと、そこに注意が向かないほどの精神状態である、ということを「レイプ目」という心神喪失的な意味を喚起する記号が補っている)、

そして、というか、だからこそ、ゆっくり殺しの時のこの真面目さ・真剣さが在る。

ここでこの行動を選択することと、この行動を真剣に行っていることの動機・整合性を、それまでの絵で十分に説明している。


「セリフがないMAD」にとって、意味は「映像(含む映像内の文字)」が全てであることを考えると、これはもう、素人が作られた僅か30秒ほどのニコ動MADとしては思いがけないほどの誠実さです。かなりの部分の説明を、作品内の映像だけで語っている。個人的には超感服。


音楽の何かアレ

最後、ついでに「音楽」。
棒歌ロイドと称されるゆっくり(でよく使われる人工音声)で歌われた湯名人の曲は、それだけでも通常から外れているのに、この作者様は、「ジャノメのゆーめいーじー↑ん」ってところとかの一部を、さらに外して作っております。
これはもう、「湯名人の歌」でありながら、「湯名人の歌」ではない。
映像の時点で、湯名人でありながら湯名人ではないのですが、さらに歌の部分でも湯名人でありながら湯名人でない――ここで最も重要なのは、全くの別物ではなく、湯名人が元となり何かしらが敷衍されて内包されている筈なのに、別物であるという事――つまりこの声が、「ジャノメのゆーめいーじー↑ん」という発音が、あの「ジャノメの湯名人」と、ここにある「ジャノメのゆーめいーじー↑ん」を分離してしまっているのです。

こういうの何て言ったらいいんだろ。異化作用っつうと大げさかもしれないけど、そんな感じというか。元ネタがありながらも、この動画が「この動画である」ことを決定付けてる感じがします。


そんなところで、おしまい。