『CLANNAD』の家族と、『キラ☆キラ』の家族――「機能」と「個人」

上記2作品(CLANNAD、キラ☆キラ)のネタバレが御座います、ご注意下さい。



結論からいうと――その前に、まず前提として「機能」と「行動(性格・性質)」を分別します。家族におけるある立場の人物に対して要求される機能と、その人物自身の行動(性格・性質)を、まずはきちんと分別しようということです。


どういうことかと言うと、例えば、「父親である前に一人の男(人間)だ」なんて言葉は、昔からよく謂われています。千絵シナリオの父親の行動など、一見するとこれを体現したかのようですね。これは”父親として求められてる機能”と、”その人個人の行動・性質・性格”が必ずしも一致する訳ではないということを表してもいます。
父親としては、浮気せずに、働いて、家族を養って、家族を愛する、これらは流動的である(社会に規定されている面がある)ので、常に確実にそうだとは言えませんが、現代日本においては、概ねこのような「機能」を求められています。
しかしそれは父親という立場に対しかかる機能であって、その人個人の性格・性質・現在持ちえているもの・元から持ちえているものとは、必ずしも全てが一致するわけではありません。父親ならば働くべきだと云っても、働きたくない(働けない)ならば働かないかもしれないし、父親ならば浮気をするべきではないと云っても、それでも浮気したくてどうしようもなくなったらしてしまうかもしれない(ここでいう「べき」を規定しているものが、常識とか当たり前とか理想とかであって、それを規定しているものが、その「機能」とも(マクロな常識などで考えると、相互的な働きも)言えるでしょう)。

これは父親だけに限らず、母親・子供、あるいは職業や役職・ポジションなど、おおよそあらゆる立場にも言えるでしょうが、あくまでも立場は立場であり、立場と、ならびそれに付随するものが、立場に居る当人と同一化されているとは限らないのです。


決して「機能」と「個人」が同一的でなくとも、立場とそこに求められる機能が、当人の思考・行動を牽引・規律させ易い(機能自体の価値が(ローカルな)社会に担保されている)のですが、それより個人の行動・性格・性質が勝ってしまい、「機能不全」のような状態に陥っているのが、『キラ☆キラ』の、きらり・千絵・沙里奈に見える家族の状態と言えるでしょう。



『キラ☆キラ』においては、各ヒロインのシナリオにて、それぞれ、大なり小なり、(ヒロインと)家族に関する問題が生じておりました。

きらりシナリオでは、プライドや意地・信条の為に家族に苦難を負わせるという父親。千絵姉シナリオでは、離婚で家族に心労を与えてしまう父親。沙里奈シナリオでは、心配と願望を操作するため家族を縛り付けてしまう祖父。
それぞれ、家族――主に父親・祖父――の何らかの行動により、ヒロインが何らかの苦難・心労・束縛を受けるという部分がありました。

これが先に記した機能不全的な状態です。この父親・祖父に共通するのは、決して彼女たちを嫌っている・愛していないのではなく、(作中の言葉や描写からは)「彼女たちを好きでいる・愛している」ながら、”普通”に規律されたその機能がまともに働いていない(その機能を満たしていない)こと――そのような行動を取る(ならびそういった性格・性質である)こと――から、問題と呼べるようなものが生じています。

「愛情」だとか「絆」とか、そういったものさえあれば万事上手く行くかというと、決してそうではなく、例えば『キラ☆キラ』では、そういったものを持ちながらも、機能不全の状態により、問題が生じてしまっているのです。



さて、先に『キラ☆キラ』において、きらり・千絵・沙里奈の、見える家族の状態は機能不全的と記しましたが、それに対し前島鹿之介の家族は、機能良好っていうか超機能的です。
ゲームをプレイすれば分かるように、家族おのおのの「機能」から見ると、すこぶる良好な状態で、父親は十全に父親として機能しているし、母親は十二分に母親として機能しているし、妹は立派に妹として機能している。そして鹿之介も、息子として、おおむね問題なく機能している。

ただその代わり、「個人」としての部分が多分に排除的であります。少なくとも、鹿之介に関してはそう――てゆうか、そもそも『キラ☆キラ』のお話の軸は、鹿之介が子供時分に、家族としての「機能」を優先し「個人」を閉じ込めた所にあるのですが――です。

形だけを見れば、「個人」を排除する(あるいは下に扱う)分だけ、「機能」が成熟している。家族としての機能、親の役割だとか子の役割だとか、望まれていることとか、そういうことを、感情や思いや衝動などより優先したことにより、抜群の機能性を発揮している。


ではここでいう「機能」と「個人」とは、よほど巡り会わせでもよくない限りは、確実に対立するもので両立が不可能な二要素なのかというと、そうとは限らず。


ここで『CLANNAD』の話に移して。

CLANNAD』では、そこを上手い具合に吸収緩衝しています。

秋生「結局、人が生きる意味は、家族や愛する人の中にあるんじゃないかってな」
この言葉(考え方)の、CLANNADにおける機能は、先に書いたことの敷衍――つまり「機能」と「個人」との乖離を埋めるものではないか――と考えられます。

字面だけ見ればまるで「滅私」の感がありますけど、「機能」は「個人」に規定されてるものではなく社会に規定されているものであり、どうしても個人と乖離が生まれる以上、(少なくとも「家族」という社会においては)「個人」自体を縮小させ、「意味」を用いて全体そのものと自己を同一的(あるいは同目的)にすることにより、「機能」を規定するローカルな社会(個々の家族)に対するコントロール性を有しますから、少なくとも機能不全を回避できるのではないか。

例えば古川家なんかは、一般的な家庭よりちょびっとずれていますけど、そのちょびっとのずれが大きなひびにならないのは、彼らにとっての「家族」というものが、上記のようなことから、彼ら自身に強く規定されていて(自己言及的な規定は殆どどこの家族でも有るけれど、この場合は「強く」)、つまり自身の「機能」に対する自己規定度も高く、そういったことにより、そのずれが問題ない――というか、中に居る人間には、ずれとしてすら認識されない――ようになっているのではないでしょうか。



結論を言うと*1、この二つのゲームの「家族」に注目すると、『キラ☆キラ』においては機能性と個人性の二頂対立かつ対比・相対化であり、『CLANNAD』はその機能性自体を個人性が規定し(ある程度以上)内包しよう、またはその逆、個人が機能性の規定されて機能性に個人が内包される、そういう面があるのではないでしょうか。

*1:といいつつ、再考必死なんですが。