考察もまた、自分にとっては「作品内」


■「作品」と「作品語り」、どちらの方が好きですか―?
http://d.hatena.ne.jp/son_air/20080605/1212648289

最近ちょっと考えていた内容に触れられていますので、便乗(?)してみます。


作品を体験して、そこで「自分が思ったこと」もまた、ある意味で”自分にとっては”作品の一部ではないかな、と思います。


作品というものは。ゲームだったら、ディスクやロムに入っているデータだとか。映画やアニメだったら、テレビモニタから流れてくる映像や音だとか。漫画や小説だったら、その紙の上に記されているモノだとか――そういうものが、『作品』なのですけど。
僕ら、当たり前ですが、それをそのままに見ることはできません。
視力とか聴力とか、注意力とか思考力とか、判断力とか分析力とか。どこに注視するかとか、どういうものが好みなのかとか、何に腹を立てるかとか、どれに笑いのツボが刺激されるかとか、何が心の琴線に触れるかとか。
しかも僕ら受け手一人一人、全員それぞれ、それらが異なっています。
作り手が、「受け手はこれを見て○○な反応を示すだろう」と思い作っても、受け手である自分自身が、その作り手が想定した受けてから外れていれば、どれだけ上手く表現できても、そのような反応は示せません。つまり、想定した理解に至れないのです。
例えば、元ネタが分からないパロディとか。特定の文化圏にしか通用しないスラングとか。自分には無い嗜好に則った描写とか。そういうのに出くわした時の受け手の反応は、果たして、全て作り手が考えたソレであるのでしょうか。


専門用語や特定の知識を要するものだけではなく。難解な思考や、自分には無い考えなどに作品が基づかれたら、受け手にとってその作品は――いや、言葉を換えて。受け手が観測した作品は、実存している作品と一致しないのではないだろうか。むしろあらゆる場合において、そうなのではないでしょうか。


前提としては。
実存している作品と、自分が観測した作品は、確実に乖離が生じている。
つうかありとあらゆるイデアとかイデア的な何かと観測との間には乖離が生じて然るべきなのだから、それもまた当たり前だと思うんだけど。
そのような乖離が存在している以上、考察なんかもまた、”自分にとってそれは作品外ではない”のではないでしょうか。


それを語り合うというのは、「僕にとっての作品」と、他人の「僕にとっての作品」を照らし合わせて、自分の「僕にとっての作品」をより深めたり、他者との対比で写し出される自分自身をより把握したり、自分の読みとそこに連なる自分自身を承認してもらったりもらいたがったり、あるいはもっとイデア的な作品そのものに近づこうと足掻いたりと、正直言うと、すげー面白いです、作品語り
僕は大好きです。だからもっと、語りたい作品に出会いたいな、そして語り合いたいなと思ってます。はい。