図書館戦争はスポーツっぽい


原作未読で、アニメ3話まで見た時点での感想ですけど。
図書館戦争』って、妙にスポーツ的だなぁと思います。


本作は「メディア良化法」により、書物(表現)が現実よりも大幅に規制されている世界です。主人公が属する図書館サイドは、メディア良化法により規制される書物を保護する組織(それ以外の書物も保護します)(って、この認識でいいのかな)。その図書館内の武力行使部隊――図書隊は、規制サイドの武力行使部隊を相手に、日夜――というほどには激しくないかも――戦闘を繰り返しながら、書物を守ったり規制したりと、やり合っています。


図書館サイドと、主人公が属する武力行使部隊である図書隊を中心に話が回るのですが。そこにおいて、規制の大元である「メディア良化法」に対する対処や対策や考えなどが、殆ど出てきません。
本作を観て、「言論統制がこんな状況生んでるんだ!だから言論統制は悪!」とかついつい考えてしまいがちですが、作中人物達はそのようなことを考えてはいません、少なくとも表に出してはいません(3話時点では)。
それよりも、例えば主人公の場合であれば、「この統制という制限の中で自分にできること・自分がしたいことは何か」というのを、模索しているように感じられます。
というより、彼女の行動の原動力となっているでしょうか。
「本を守りたい」「憧れの人と同じ様なことを自分もしたい」、その思いが、今の彼女を動かしています。


そういった彼女の動機は、実は「メディア良化法」が無かったら――無くなったら、潰えてしまうものです。そういう規制があったから生まれたものだし、そういう規制があるから、今も確固とした目標として存続できているのです。
そもそも、彼女が属する図書隊・図書館という組織も、”「メディア良化法」の存在があるから”、今の形を保てていると言えるでしょう。
もしもメディア良化法が無くなったら、あの規模で図書館を維持する必要性が果たしてあるか? 銃器を武装した図書館員の存在が認められるのか? この辺は怪しいところではないでしょうか。


一言でいうと、「メディア良化法」という縛りと、主人公ならびに彼女が属している組織は、固着してしまっているのです。


この『図書館戦争』は(僕が観たのがまだ序盤時点の話なのでこれから変わるかもしれませんが)、その縛りを排除しようとせずに、その縛りの中で如何に変わっていくか・いけるかという点を重要視しているように見えます。


例えば、主人公。
彼女は数多の失敗を犯しますが、その度に成長しようと、変わっていこうと努力していきます。その原動力は先にも記した、彼女の思い(「本を守りたい」「憧れの人と同じ様なことを自分もしたい」)からのものです。しかしそれは裏を返せば、自分の思いに縛られている(規制されている)ということであり、またその思いそのものも、元をただせば縛り(規制)があって生じたものでした。そして、その縛り(規制)を失くそうという考えではなく、その縛り(規制)の中でどう変わっていくか、そのような思考に則り彼女は行動していきます。
図書隊の現状――訓練、戦闘、そして「本を守る」という最大の目的も、その縛り(規制)が存在するからあるものでして、また彼らの向かう先も、その縛り(規制)を失くすことではなく、その中でどう上手くやっていくか、そういったベクトルに進んでいます。


規制や縛り、つまりルールの中で――ルールを壊そうとせずそれに則った上で、より良い・より目指す結果を出そうと努力する。その姿勢は、非常にスポーツ的に見えました。