ブログのコメントはおおよそで縦軸アレ、横軸ソレで分類できると思うの


知り合いとかよく絡む相手とか除いて、主に一見さん、はじめてコメント貰う相手の場合。
コメントってのはおおよそで縦軸アレ、横軸ソレで分類できると思うの。


・縦軸アレ
記事に対して書かれたコメントか、書き手に対して書かれたコメントか

・横軸ソレ
対話可能なコメントか、対話不可能なコメントか(返答を求めて書いたコメントか、返答を求めずに書いたコメントか)

あくまでも、交流が特に無い場合に限ってね。
コメントを書く人の方向性と、その受け取り方の方向性は、

  • コメントを書いた人的には、
    • 「その記事に向けて書いたのか」
    • 「その記事を書いた人に向けて書いたのか」、そして
    • 「返答を求めて書いたのか」
    • 「返答を求めていないのか」
  • コメントを受けた側(ブログの管理人)的には、
    • 「記事に向けて書かれたコメントか」
    • 「記事を書いた自分に向けて書かれたコメントか」、そして
    • 「対話することが可能なのか」
    • 「対話することが不可能なのか」


これで分類できると思うの。


で、これを表にするとこんな感じ。



この何処にあるかで、コメントの対処方とか、コメント処理コストとか、コストに見合う対象かとかが大雑把に分別できるんじゃないかなぁとか。おおざっぱに。


記事自体に向けて書かれたコメント

主に感想とかツッコミとか。2ちゃんまとめサイトのコメント欄とか、動画紹介サイトのコメント欄なんかは、大抵がそのベクトルの極点まで達しています。まあ管理人が作ったコンテンツである色が薄いので、当然の帰結ではありますが。はてブコメントの半分以上は、この方向が強いです。

記事を書いた人に向けられたコメント

主に感想とかツッコミとか。という点で上と被るのですが、上のは、「その記事を見る他の閲覧者に対する主張」である面が強いのに対し、こちらは「その記事を書いた人に対する主張」であること。はてブコメントでこの方向性が強いのは三割くらいかなぁ。

返答を求めてる・対話可能

特に解説する必要もないと思いますが、返事を求めて書かれてるっぽいものがソレで、返事を求めて書いたっぽいものがソレです。コメントの書き手は返事を求めてるんだけど内容が返事を求めてるようには見えない場合もあるので注意。や、それはコストの話に転化できるのですが。
対話関係には『コスト』という要素が強く付き纏う感じ。言葉使いが気に入らない的な感情コストとか、言ってることが難解or稚拙orすれ違いすぎてるという解読コストとか、落とし所を気にしてるか否かという泥沼コストとか。書く方も応える方もその辺の折り合い付けて、骨折り損のくたびれ儲けとか、元を取ろうとして優越感ゲームとか自尊心満たしまくり大会とかにならないように気をつけるのが吉。

返答を求めてない・対話不可能

「返答を求めてない・対話不可能」なコメントに多いのは、短文。賞賛でも否定でも、「素晴らしい」「バカじゃない」みたいな一言だけのコメントは、基本的に返答を求めていないと考えて大丈夫でしょう。てゆうか返答を求めているのだとしたら、それなのにそんな短文を打ち込む言語センスがどうかしていると言わざるを得ないというか、その時点で対話コストが高すぎることが判明すると言わざるを得ない。
「名無し」「通りすがり」「 (名前欄無記名)」も、返答を積極的に求めているとは言い難い。個体認識を避けるというのもあるけど、「深く関わる気が無いから名乗りすら挙げないよ」と、対話コストの高さ(というか割に合わなさ)を迂遠に示唆している。
はてブコメントも「返答を求めていない」というのが大半。てゆうか返答が担保されてるシステムじゃないので、本格的に返答を求める人はまずいない。個人ニュースサイトの記事紹介時の一行コメントみたいなもの。

乱暴に言えば

はてブコメントなんかは、大概が「記事に対して寄り」「少し対話不可能」で、ちょっと右上に位置すると思います。2ちゃんまとめサイトのコメントは、殆どが右上極点。名無し・通りすがり・無記名のコメントは対話不可能寄り。




コメントを書かれるほう(ブログ管理人)にとってとにかく困るのは、対話不可能なコメントでしょう。言いたいことを言うために書いてる的なコミュニケーション放棄なコメントは、コミュニケーションを放棄しているが故に、相手への返答・返信(ブロガー側からのコミュニケーション)のコストが高い。コメント欄が「コミュニケーションの場である」という前提が一応生きてる以上、コミュニケーションを排したものをコミュニケーションの場に持ち込まれては、その場の管理人としてはもにょもにょしてしまう。
コストが高いコメントと、終わりの見えないコメントは概ね扱いづらい。
特に終わりの見えない・落とし所を考えていない相手との(連続性を持つ)コメント応対は、気付いたら泥沼というか、掛けたコストに見合うナニカを得ようと、優越感や自己顕示などのあらぬ方向に暴走してしまう可能性があって、突き抜けるといがみ合う相手に成りかねないので、適当な所で自分の自尊心を折ってでも丸めとかないと辛いでしょう。


ネガコメかどうか」なんてことよりも、「対話可能性は如何ほどか・対話コストは如何ほどか」の方が個人的には重要。自分の意見を述べる以上は、他者と意見が異なることを許容する義理みたいなのがあって(道理的には)、そうであるのなら「批判」というものの存在をネガティブに取ることは、ちょっと背反気味。
視点を逆にして、ブログ記事の書き手の方にも言えることだけど。
批判する方だって、「これ書いたら相手の人、嫌な思いするかもなぁ、傷つくかもなぁ」と思いながら書いてる場合もあり、それをネガの一言で記号化するのはさすがに乱暴すぎるかと。てゆうかリアルにおけるコミュニケーションでの「ネガ」の扱いは、ただ否定的だから・批判的だからだけではないですよね。「叩いた私の手も痛い」みたいな場面は往々にしてあるし。その言葉、叩かれた方には欺瞞にしか見えなくても、叩いた方には真実でもあるのだから。