「濃さ」は作品でもジャンルでも語れないっぽいことと、作品の形態変化

「濃さ」は作品でもジャンルでも語れないっぽい


うわぁ、なんか脆弱性を突いたツッコミみたいになってしまった……。わかってて言葉を置いといたのかもしれませんが、そうだったらすみません。


■オタクの濃さについて
http://tekitounaotoko.blog4.fc2.com/blog-entry-309.html


これはもうちょっと細かくした方がいいかなぁと思います。
「濃い」と「ヌルい」が、ある一つのモノ(作品・ジャンル)を「深く探求する」と「深く探求しない」で分類するのは、おおよそでは正しい洞察だと思いますが、”ある一つのモノ”ではなく、”何かを”で考えた方が良いかなぁと。


作品やジャンルとかで絞ると、深く探求するのが濃くて、深く探求しないのがヌルいという区分けは、一つの視点が前提になりますよね。
「ヌルい」オタクが触れたあるジャンルの「濃い」オタクから見た、その「ヌルい」オタク。
あるいは限定。そのジャンルにおいてはヌルいという限定


「濃い」オタクならば、「鳥の詩」が気に入ると当然「AIR」もプレイし、その考察を始めたり、歌い手であるLiaの他の曲を網羅しようとし、Keyの他作品にも手を出し、そこから他社の「泣きゲー」作品に手を出す、という行動を取る。
例に挙げられてるのを鑑みると、「AIR」の濃いオタクからすれば、鳥の詩を気に入ったけどゲームプレイしないしアニメも見ないし関連作品も興味薄いなんて人は、ヌルいオタクに当て嵌まる。
ただしこれは、「AIR(Key)の濃いオタク」からすればヌルいオタクであるという視点か、「AIR(Key)」に関してはヌルいオタクであるという限定を生じさせる必要があるでしょう。
なぜなら。
例えば「AIR(Keyでもいいです)」をめっちゃ深く読み込んで考察して関連商品堪能しまくった人――濃いオタクが、必ずや他の分野でも濃いオタクであるとは限らないから。「AIR(Key)」はべらぼうに詳しいけど、他のジャンルは全然知らないって可能性はありますよね。「アクエリオン」の主題歌を気に入ったけど、「アクエリオン」自体は見たこと無いしよく分かんない、なんてこともありえる。気に入ったからって当然で深く探求する時間もお金も無いし、”気に入った”がどれだけの”興味”に転化するかも、場合や物に依るでしょう。


果たしてそんなオタクは、「濃い」のか「ヌルい」のか。
鳥の詩が気に入ったけどAIRの興味薄いって人もまた、実は何かを凄く深く探求しちゃってる人なのかもしれない。その人は、「濃い」のか「ヌルい」のか。




つまり、作品単位”だけ”では語れないということです。
放映されるアニメを一回しか観ないけど全て視聴するという人と、京アニ以外のアニメを見ていないけど京アニのアニメを何回も見直して考察して関連商品堪能しまくってる人とでは、「京アニオタ」という区別では後者の方が「濃いオタク」でしょうけど、アニメオタという区別では前者の方が圧倒的に「濃いオタク」なのではないでしょうか。

しかも、ジャンル単位”だけ”でも語れないと思うのです。
ジャンルが、そのジャンルに分類される作品を内包しているわけではないと思うんですよ。だからアニメに濃くても、その中の細かい作品やクリエイターで区分けると、全然濃くない場合もあって、また逆も当然あるわけで。
そしてジャンルというのは、大分類小分類たくさんあって、たとえばアニメにおいても、アニメ全般、ロボットアニメジャンル、スポーツアニメジャンル、美少女アニメジャンル、クレイアニメジャンル……、とかとか沢山あって、そこからさらに小分類すると沢山の作品や沢山のクリエイターがいて、しかもジャンルの大分類を横断するような作品(美少女ロボットアニメとか)とか小分類を横断するような作品(声優○○で監督××とか)もあるわけで、しかも互いが互いを内包しているとは限らないわけで、どれかに濃い人でもどこかではヌルい可能性は十分あるわけです。

「ヌルい」という人も、多分作品でもジャンルでもなくて……、うーん、普遍性を持たない答えになるのですが&イマイチ纏まってないのですが、たぶん、「自分の属する文化圏で濃い」という形で濃さを証明していて、そしてその濃さのみを欲してるんじゃないかな、とか思うのです。普遍的にはヌルくても主観的な濃さに有意性を感じる、とか。



ここからちょっと話が変わりますが、ついでにもう一つ。

作品の形態変化

ニコニコ動画の登場が大きいと思うんだけど、作品の形態そのものを、もっと拡大して(あるいは縮小して)考えた方が的確ではないでしょうか。


普通アニメだったら、第一話OPから最終話EDまでで一つの作品として認識されるだろうし、MADとかOP(主題歌)とかはその作品の一部or派生として認識されている(だから、鳥の詩どうこうとかアクエリオンOPどうこうとかなるんでしょう)けど、それは切り離しちゃっていいんじゃないでしょうか


アクエリオンのOPは、「アクエリオンのOP」っていう、アクエリオンとは別の作品である。鳥の詩AIRのOP)は、「鳥の詩AIRのOP)」っていう、AIRとは別の作品である。
なんかのアニメのMADは、「なんかのアニメに属している作品」じゃなくて、「なんかのアニメのMAD」という一つの作品だし、なんかのゲームのプレイ動画は、「なんかのゲームに属している作品」ではなくて、「なんかのゲームのプレイ動画」という一つの作品。


多分別物で考えた方が良いんじゃないかと思うんです。もうそれ自体が元ネタを知らなくても楽しめる一つの”独立”したコンテンツになっているのだから
作品と言うと、ついつい、パッケージングされたアレやソレかと思ってしまいますが、OPやEDだけでも、本編を切り貼りしたMADでも、なんかの小説の1ページでもなんかの漫画の1コマでも、確固とした作品に成り得るのです。もちろん、元となるパッケージングされたアレやソレとは全く異なる作品ですけど。しかし、それはそれで、その作品の独立性の証左にもなります。
だから、独立しているのだから、そこから元ネタに進まない人だって当然出てくるでしょう。アニメとかゲームとか小説の、パロディとかシステムとかオマージュとかの元ネタをわざわざ探求する人が決して多くは無いように。