麻枝准が作り出した永遠にお別れを――リトルバスターズ!エクスタシー


※ネタバレはあんまり無い(と思う)



かつて麻枝准さんは、『ONE』というゲームでこんな一文を記しました。

「えいえんはあるよ」
彼女は言った。
「ここにあるよ」
確かに、彼女はそう言った。
永遠のある場所。 …そこにいま、ぼくは立っていた。

永遠。
この『ONE』のお話の中で、それは”ある世界”のことを示しています。全てが不変の、永遠の世界。何も失わず、けれど何も手に入らない世界。
そういう世界が、『ONE』の物語の中にはあります。


しかし、プレイヤーからしてみると、ここでいう”えいえん”は、その言葉通りに”ここ”と言えるでしょう。
「ここにあるよ」の”ここ”。つまり、その文字が表記されてる場所、画面の中、このゲームのこと。このゲームディスクのこと。このゲームのデータのこと。
何度やっても変わらず、どれだけ経っても失われない。いつゲームを始めても、いつも同じ選択肢が出てきて、いつも同じ物語を辿れる。幾らでもこの物語を反芻し続けることができる。それがこのゲーム。


ゲームという、永遠に続けることができる虚構。
それは『ONE』のみならず、『Kanon』も『AIR』も『CLANNAD』も同じこと。





この『リトルバスターズ!エクスタシー』の朱鷺戸沙耶シナリオは、前述した作品のシナリオを書いた麻枝准の、シナリオライター引退作になります。
てゆうか本来は、その前作、『リトルバスターズ!』で引退予定でした。

だから、これらには、永遠に続けられる虚構に対する答えを――麻枝准の答えを、読むことができます……というか、最後だからどうしても、本作が一番大きい意味を持ってしまいます。


ゲームという永遠に続く虚構の終わらせ方。
リトルバスターズ!』のメイン部分(前作と同じ(リフレイン))は、その観点で読み解くことが可能です。終わっていく永遠の虚構と、それに告げる別れ。
そして、『リトルバスターズ!エクスタシー』の朱鷺戸沙耶シナリオも、それで読むことができます。永遠の虚構を、自らの意思で終わらせる。といか、自らの意思以外では終わらせられない。


沙耶シナリオは、「永遠の虚構との付き合い方」という観点では、リフレインを綺麗に補完していると言えるでしょう。
リフレインとは立場を変え、立ち位置を変え、理由を変え、存在を変え、意義を変え、それを語っている。
リフレインが本来の麻枝准ラストシナリオであり、沙耶シナリオがイレギュラーで作ることになった麻枝准ラストシナリオ――つまりもう一回、もう一声である――という出自を鑑みれば、この二つの差異も、よりしっくりくることでしょう。前者が、もう作られることがない永遠の虚構との別れなら、後者は、既に作られている全ての永遠の虚構との別れでもある。


リフレインが「永遠に続く虚構」ならば、沙耶シナリオは「永遠に”続けることもできる”虚構」。
沙耶シナリオにおいて、その”続けることもできる”虚構をどうやって終わらせるか。それはプレイヤーの”続けることもできる”虚構――ゲームの終わらせ方と、同じです。自分の手で電源を切って自分の意思で終わらせない限り、永遠に続いてしまう。

去りたくなったら、迷わず己に向けて引き金を引くがいい。
去りたくなったら、迷わず電源を切って終わらせるといい。
去りたくなくても、いつかは電源を切って終わらせなくてはならない。
そして終わらせたら――永遠でも虚構でもない世界が在るから、そこで生きていけばいい。



麻枝准が作ってきた、たくさんのゲーム――たくさんの、永遠に繰り返せる虚構の物語。
それにお別れを告げるのに相応しい、そんな物語。