パンツってなに? あの小さな布地を、ストライクウィッチーズが「パンツじゃないもん」と言い張っても、見た目も機能もそのまま


パンツで御馴染みの『ストライクウィッチーズ』。最近見始めたのですが、これは――この作品のパンツ(のようなもの)は、もしかすると、パンツについて語るパンツというメタパンツなのかもしれない。私たちはパンツを見せる・見られることを基本的に恥ずかしいものとして受容していますが、しかし元々それは何に依拠されているのでしょうか。あの布切れの見た目? 機能? パンツという言葉の意味? 社会的な視線?


名前ってなに? バラと呼んでいる花を、別の名前にしてみても、美しい香りはそのまま
(「ロミオとジュリエット」より)
この言葉を思い出しました。てゆーかすみません!こんな記事に引用して……。


ストライクウィッチーズには、キャッチコピーとして有名な一文があります。「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」。どう見てもパンツにしか見えないあの小さな布地を晒している彼女たち(注:ストウィチ世界ではあれはズボンです)ですが、あれは別にパンツじゃないから、見られても彼女たちは別に恥ずかしくないよ?といった趣旨のキャッチコピーだと思われます。


ここに僕は、二つ、疑問点を抱いたのです。


「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」ということは、翻れば、「パンツだったら恥ずかしい(可能性が高い)」ということになるでしょう。パンツだったら必ずしも恥ずかしいとは限りませんが、しかし「パンツ”じゃないから”」という前提が恥ずかしくないという反応を確定している以上、その逆の、「パンツ”である”」には、恥じらいが前提として孕まれている必然性があります。というか、そうでなければこんな構文は成り立ちません。「パンツ(を見られる)=恥ずかしい(可能性が高い)」という自明の前提の元に成立している文章なのですから。
ここから読めるのは、『パンツだと恥ずかしい(かもしれない)(可能性が高い)』ということ。


次に感じたのは、あの娘たちが穿いてるのって、あれってぶっちゃけパンツじゃね?という点。



『パンツだと恥ずかしい(かもしれない)(可能性が高い)』でありながら、見た目や機能はパンツとほぼ同じ。けれども、ストライクウィッチーズの世界で、あれは恥ずかしくないのです。股間を隠す小さな布切れを見られても、恥ずかしくないのです。


しかし――しかしそれだと、新たな疑問が生じます。


ストウィッチ世界の彼女たちでも、パンツだったら恥ずかしいのかもしれない。しかし、彼女たちの穿いてるズボンは、見た目パンツそのもの。――じゃあ、彼女たちはいったい、パンツの何に恥じらいを抱けるのでしょうか? パンツだと恥ずかしいかもしれないという前提は、一体何処にある? パンツという名前に? それともパンツという存在に?
全く同じ作りで、同じ機能を有するものでも、パンツではなくズボンと呼べば、恥じらいを抱かなくなるのでしょうか?


上の文の「彼女たち」を「私たち」に置き換えても通じる話でしょう。私たちも……や、全てとは言えませんが、大方の人は、パンツを見られたり見せたりすることに恥じらいを抱きますよね? それは何故なのでしょうか。


パンツを見られること・見せることが何故恥ずかしいのか?
これまた同じく見られると恥ずかしい股間を隠す一番最後の防衛線だからでもあるでしょうが、それよりも僕としては、社会的に「パンツを見せる・見られるのが恥ずかしいことである」というのが強く働いていると考えます。パンツを見られて・見せて当たり前の世界だったら、パンツを見られて・見せても恥ずかしくないのではないだろうか。例えば、風呂上りにパンツ一枚リビングを歩き回ってるのが当然のこととなっている家庭では、その場(という限られた世界)でパンツを見られる・見せるという行動に恥ずかしさを抱かないでしょう。原理としては、テレビに見る未開拓地の現地部族の人々が殆ど全裸なのに恥ずかしがらないことや、ヌーディストビーチでは全裸でも大半の人が恥ずかしがらないのと同じです。社会により意味が規律される。


「パンツ」という言葉は、あの局部を隠す布切れのことを指し示します。現代日本においては、それを衆目に晒すことは基本的に恥ずかしいこととして受け止められています。しかし――しかしそれはあくまで、現代の日本。パンツ、ならびにパンツを見せること・見られることが、ありとあらゆる場所のありとあらゆる社会で恥ずかしいこととして受け止められるわけではないのです。


そういうことを、ストライクウィッチーズの『パンツ(みたいなズボン)』は、まるで語っているかのようです。記号表現と記号内容は、常に一定ではない、場所と社会で変化する。全く同じ見た目だけど。ストライクウィッチーズの世界では、あのパンツのようなズボンに、私たちが見るパンツとは別の意味が・社会的な意味が、与えられているのでしょう。そしてストライクウィッチーズ世界におけるパンツも、私たちが知らない『パンツ』というものか、あるいは、私たちが知ってるパンツとは別の意味が与えられているのかもしれません。
『パンツ』が持つ意味も、『パンツを見られる・見せる』という行為が持つ意味も、現在の私たちが抱いている意味が絶対ではなく、別の場所の別の世界では別の意味に変化する。パンツじゃなくズボンと言い張ってるけど、見た目機能が同じなら結局パンツなんじゃないの? と言ってみても、そこで私たちが思う『パンツ』という意味と、ストライクウィッチーズ世界における『パンツ(ズボン)』という意味が、全く違うかもしれない。小さな布地を、ただ「パンツじゃないから」と言ってるだけではなく――名前だけではなく、その中身まで、ただ私たちが思うパンツに似ているだけで、別物なのかもしれません。
私たちが考える意味は、私たちへの意味規律は、常に、私たちが知る世界・私たち自身の眼に依拠しているのだなと心から思わされる。……ストライクウィッチーズのパンツは、そんなことを考えさせられる、メタパンツでした。