ストライクウィッチーズのパンツ 現実と非現実の境界線上のパンツ


ストライクウィッチーズの女性キャラは常にパンツ・あるいは水着を丸出し状態(作中ではズボンという扱い)なのですが、「パンツ丸出し」という光景は、よくよく考えれば<非現実的>です。これは私たちの生きる現実から見て非現実的というだけではなく、アニメにおける現実(当然・常識・リアリズム)から見ても非常に<非現実的>です。パンツ丸出しで生活を送る現実など、私たちの殆どは知りません*1。アニメにおいても知りません。しかし、ストライクウィッチーズ世界においては、その「パンツ丸出し」が当たり前のものとして存在しているのです。パンツ丸出しという、私たちにとっての<非現実><非日常>が、あの世界では<現実><日常>として存在しているのです。
非現実を、パンツ丸出しで許容している。日常に一点だけ、パンツ丸出しという非日常を混ぜて、そしてそれは<わたし(視聴者)>以外に日常として受け入れられている。視聴者にとっては<非日常><非現実>になのに、ストライクウィッチーズ世界にとっては<日常><現実>。


今回、そのことについて考えてみました(結論出てない(纏まってない)ので、そのうち続き書くかも)。





女の子が常にパンツ丸出しという光景に、最初は「うわーよくやるよ」くらいに思いつつしかしながら、それを正当化するような描写や作品世界でそれが必然であるといった説明がそのうち何か挿入されるだろうと思いこのパンツ丸出しの件について特に判断を保留していたのですが、さすがにこういう場面では笑ってしまいました。



<パンツ丸出しでフォーマルな場に立つという図>


上官に対する報告という堅苦しくなる場面においても、通常通りのパンツ丸出しで、そして誰もそのことにツッコまない。現実で例えればオフィスにてOLがパンツ丸出しで重要な会議に出席しているような違和<おかしさ>であろう。パンツ丸出しである理由も語られず、しかしパンツ丸出しであることが当然として受け入れられているという構図、それを決定的に示すこの場面に思わず笑いが漏れてしまいました。


「パンツ丸出し」という非現実


同時に、こういう絵図らは何かアダルトビデオで見たことあるな、とも思い出しました。タイトルなどは思い出せませんが、オフィスの中でOLが下着なり裸なりで過ごしているのに、そこに誰も違和感を抱かず、またそのことの説明がまるで無い、そんな作品。ちょっとずれるかもしんないけど、具体的にはソフトオンデマンドの全裸なんちゃらシリーズみたいな感じ。
ソフトオンデマンドの全裸なんちゃらシリーズというのは、いやそんなに見た訳では無いので全体に対する言及としては間違ってるかもだけど、自分の観測内では、全裸で新体操やったり全裸でバレーボールやったりするだけというアダルトビデオなのですが、ここで注目すべきは”するだけ”というところ。いわゆる普通のAVに普通に存在する”本番”がなかったりするのです*2。ただ、全裸の女性が、いたって普通に――そう、全裸であること以外に現実と差異を持たずに――新体操なりバレーボールなりを行う。そしてそのこと(全裸であること)の、必然性を伴う説明は行われないし、そのことは作品世界内ではそれなりに当然のものとして受け入れられている。
この作品の何処にエロティックを感じる要素があるかというと、肉体的な面と状況的な面があって、前者は女性が裸でスポーツするところを見れる――裸体に対するフェティズム的な感性であり、後者は極めて現実的な状況に裸体という非現実を当たり前のものとして(作品世界内の現実として)挿入することにより生じる現実と非現実(=性的なるものの露出)の境目の消失、そこに在る背徳性と禁忌、つまり現実と酷似したエロティシズムな別世界を作り上げているところにある。


ストライクウィッチーズの「パンツ丸出し」が繋がるのは、上記で言う後者の部分。


「外で全裸でいる」というのは、異常なことですよね。外っていうか、建物の中でもそう。お風呂や性交中など、全裸であることが当然の場合・空間において全裸であるのは当然なのですが、それ以外の場合・空間において全裸であることは異常といえる。言い換えると<非現実的><非日常的>とも言える。ここでもっとも注目すべきは、その<非現実><非日常>の担保となっているのが、「全裸」しかないところ。そこ以外は比較的現実的である。
エロは<非現実的>であるので、我々視聴者にとっての非現実を作品世界の現実にすることがエロを期待させる、というのが在り、ならびに”このようなたった一つの要素の介入で「現実が非現実になる」=「本来侵されざるものが侵される」”という境目の空虚さの露呈が、そこには存在する。


ストライクウィッチーズの話にいきましょう。


ストライクウィッチーズのパンツ丸出しというのは、これと近いものに感じます。パンツ丸出しという情景は、誰が見ても分かる、非現実的なもの。しかし、ストライクウィッチーズ世界では、それは当たり前のものとして受け入れられています。
当たり前のものとして、最初からある前提。必然性や理由を視聴者にも作品世界内の誰かにもする必要がないくらいに当たり前のもの――すなわち、作品世界内の<現実><日常>として存在している。
わたしたち視聴者からすれば、その光景は<非現実><非日常>である――この場合は、わたしたちがリアルに生きる現実・日常と比べて非現実・非日常と言うだけではなく(それだけなら大抵のアニメは程度差あれ満たしている)、他のアニメと比べても非現実・非日常。アニメにおけるリアリズム・アニメにおける当然・常識という<アニメの現実><アニメの日常>すら侵されてしまっている――。私たちが幾ら「パンツ丸出しはおかしい、変!」と思っても、ストライクウィッチーズ世界においては全く変じゃなく当たり前なのです。パンツ丸出しは確かに変に見えるけど、間違ってるのはパンツじゃない、私たちの方。私たちの現実とも私たちが見るアニメの現実とも違う世界を、ストライクウィッチーズは「パンツ丸出し」というただ一点だけで作り上げているのです。そして、差異がそんな僅かなものだから、余計に際立つ。もともとの現実・日常が余計に際立つ(連続性が見えないからより、かも)。現実・日常を越える・変えるという恐怖と背徳と禁忌を感じる行為が、これほど簡単に成しえられることが。


現実(アニメ文脈的に主流であるという現実)との乖離が、僅かそこだけで醸成されている。『パンツ丸出し』という一要素により、<日常><現実>という境目を超越している。本来侵されざる<現実><日常>を僅かなパンツで<非現実><非日常>へと侵食してしまっているのです。


そこには背徳性と禁忌と現実を(簡単に)突破すること、そして現実を簡単に越えてしまうことからの「可能性への期待」が存在します。


パンチラとの違い


パンチラとの違いで謂うと、あくまでパンチラは<現実><日常>に<非現実><非日常>をその瞬間だけ挿入するものです。
またぞろエロビデオで例えると「露出」物です。あくまでも、世界は世界のまま、現実日常は現実日常のまま、そこに露出(エロ)という本来ありえない非現実を挿入する。パンチラも同じく、現実・日常に、隠匿されてるべき(現実・日常において不可視である)パンツという本来ありえない非現実が挿入される。それはただ現実に非現実が混じったというだけで、現実に孕まれてる非現実が露見した(非現実的な要素は現実において隠匿されている。例えばその辺の路上において本来見えるはずのない裸体を私たちが服で隠蔽しているように)にすぎず、ストパンのように<現実><日常>自体を変容させるほどのものではない。
パンチラはあくまで日常に非日常を挿入するもので、ストウィッチのパンツとは大きく異なります。<現実><日常>自体は、私たちが知る物とほぼ同じなそれが維持されており、そこに<非現実><非日常>が挿入されるだけ。ストウィッチのパンツとは逆で、パンチラにおいては、間違ってるのは世界じゃなく、パンツの方なのです。


常にパンツ丸出しというと、サザエさんにおけるワカメちゃんなどもそれにあたりますが、あの作品世界でパンツ丸出しなのは彼女ひとり(自分の知る限りでは)であって、世界が(現実が・日常が)パンツ丸出しを許容している、ルールとして組み込んでいるストライクウィッチーズとは大きく異なります。ワカメちゃんの場合は、あの世界が異常なのではなく彼女一人が異常だと捉えることも可能なのです(間違ってるのは世界じゃない、パンツでもない、ワカメの方だ!)。

■追記
micknさんのはてブコメントで、「先週のサザエさんに出てたワカメの友達もパンツ丸出しだったような」というコメントを頂きました。ワカメだけでしたら彼女一人が浮いてる、まるで晒し者のような感覚でありましたが、なるほど、左様でしたか。お詫びして訂正申し上げます。「(ワカメ程度の年代の)女子のパンツは見えて必然」というルールが、サザエさんの作品世界内には存在しているのですね。これは確かに非現実的なるものを作品世界内の現実にしているのですが、ワカメ程度の低学年女子のパンツ隠蔽能力を考えると(またサザエさんの時代背景も考えなければいけないかもしれません)、その強度(非現実度)はストライクウィッチーズのパンツと同位に扱われるものではないと考えられます。極端なものではありますが、「デフォルメ描写」の範疇内と捉えることも可能かと思われます。ただしベクトル的にはストパンと同列的であり(非現実を当たり前の現実に組み込んでいる)、現実の投影的であるサザエさんにおける<非現実>を描写する・意味する要素として、見なすことが可能なのではないか、などと考えております(追記おわり)。



非日常性。非”普通のアニメ”。その担保が、常にパンツ丸出し。そんなたった一つの要素で<日常>が<非日常>に変わる。<日常><非日常>の境目が僅かでしかないという背徳。


非現実を、パンツ丸出しで許容している。日常に一点だけ、パンツ丸出しという非日常を混ぜて、そしてそれは<わたし(視聴者)>以外に日常として受け入れられている。視聴者にとっては<非日常><非現実>になのに、ストライクウィッチーズ世界にとっては<日常><現実>。
パンツ丸出しに異常を感じても、それは視聴者だけ。
ストライクウィッチーズからすれば、世界は正常で、異常なのは視聴者の方。
その元となっているのは、「パンツ丸出し」という、たったそれだけのこと。

*1:もちろん、どこかの土地・時代にはそういう場が在ると考えられます

*2:シリーズ全てで無いわけではない、と思う