Keyキャラの「食べ物の好物(あゆのたい焼きとか)」について


Keyのゲーム『Kanon』のヒロインには、「食べ物の好物」という設定が、かなり大きな要素としてありました。

  • Kanon
    • あゆ……たい焼き
    • 名雪……いちご(いちごサンデー、いちごジャム)
    • 栞……アイスクリーム
    • 舞……牛丼
    • 真琴……肉まん

他に、『ONE』には、茜のワッフル、椎名のテリヤキバーガー、長森の牛乳とかあったし、『AIR』には、観鈴のどろり濃厚とかありました。


物語で、キャラの好物がプロフィールとしてのそれではなく、作中人物・ならび読者に、あゆのたい焼きとか観鈴のどろりとかくらいに(キャラの構成要素として不可欠なくらいの重み、たい焼き好きじゃないあゆは最早あゆじゃねえ、と言えるくらいに)『好物』と認識されるには、当然ながらそれを好んで食べてるシーン(または渇望するシーン)が、一度ではなく複数回必要でしょう。

複数回、類同するシーンを、というのは反復で、反復は強調に繋がっていて、ならびに(同じ様なことを繰り返すから)日常として位置づけられる。
そして、その反復の元となっているのが、「好物」という、食物の嗜好という、(平和な)日常を表意する(命の危機の時に食べ物の好き嫌いが強い力を持つか、緊急事態において好き嫌いを指向する余裕があるか)ものなので、『日常』の意味づけ・刷り込みが、二重に行われている(ONEの長森シナリオのラストが食べ物の話というのも)。

どろり濃厚とかアイスクリームとかたいやき一つで、日常と繋がれる、という感じですね。(ONEとかKanonとかAIRの)物語終盤では、前半のストーリーとは一転、問題が起き困難が立ちはだかり、それまでの「日常」とは隔世の感を呈しているんだけど、日常の属性を持つ好物が、反復・強調により、『日常を意味するもの』として確立した。「好物」で、日常を想起できるという感じですね。
観鈴が死にそうだけど、「どろり濃厚」というたった一つの食べ物だけで、その瞬間だけは日常に帰れるというか。
栞が死にそうだけど、「アイスクリーム」を食べてる場面だけは、中庭で過ごした日常と変わりないというか。


好物は、「非日常」と「日常」を繋ぐもの、「非日常」と「日常」が連続的であるということを、思い起こさせる要素としても機能していたと思うのです。
ちょっと極端に言うと、好物が意味するものは「日常」である、と。(そして非日常においてこそ、それが強く作用する)。反復で強調しまくったお陰で、そういう位置に立てていると思うんですね。
大変な状況(物語後半)でも、好物ひとつで、それを笑顔で楽しんでいた日常を思い起こさせると同時に、それを笑顔で楽しんでた頃と今(大変な状況)が地続きだということを思い起こさせる、そして、それを笑顔で楽しんでた頃(日常)に、もう戻れないかもしれない/また辿り着けるかもしれない、という思いを馳せれる。



ただ、逆に言うと、そういう思いを”馳せれてしまう”。そういう意味を有してしまう、という問題がありますね。

CLANNAD以降のKeyキャラクターは、好物の――あるいは、好物として描写されるものの――意味強度が、ここまで強いものではなくなりましたね(というか、かなり大部分のキャラが「好物」を持たなくなった・描写されなくなった)。

物語で、キャラの好物がプロフィールとしてのそれではなく、作中人物・ならび読者に、あゆのたい焼きとか観鈴のどろりとかくらいに(キャラの構成要素として不可欠なくらいの重み、たい焼き好きじゃないあゆは最早あゆじゃねえ、と言えるくらいに)『好物』と認識されるには、当然ながらそれを好んで食べてるシーン(または渇望するシーン)が、一度ではなく複数回必要でしょう。
と記したとおり、反復させる必要がある、そして強調に繋がってしまう、それが日常になってしまうという使い勝手の制約があって。
それが、『CLANNAD』『リトルバスターズ!』の物語と合わない部分があるんじゃないか、なんて思います。

CLANNADなんかは、ONE・KanonAIRみたいな日常と非日常の隔絶ではなく、「日常→非日常→(変化あるいは転化)日常→(変化あるいは転化)非日常」と流動していく物語ですから、つまり変化の連続性が常に担保されてる物語ですから、「好物」なんかで連続性を示す意義も薄いし、変化を許容するお話ですから、非日常にて日常に思いを馳せる必要もない。
CLANNADにおいて、今までの日常と違う状況になった時は、「非日常」ではなく、それが「新たな日常」になる(変化・転化する)ということ――そしてそれを許容すること――ですから、好物がどうしても「日常」を引っ張って来てしまう以上、使いづらいんじゃないかなぁと。

リトバスなんかは、連続性をくちゃくちゃ高めて、そもそもの日常と非日常の垣根を無くすお話なんですから(あそこで語られるお話し全てが日常(あるいは非日常)という作品)、小毬のお菓子や、真人のカツくらいの強度ならまだしも、あゆのたい焼きだの名雪のいちごだのレベルの、「日常」を意味しすぎてる好物は入れらんないんじゃないかなーとか。そんな話です。