ストライクウィッチーズのパンツ 現実と非現実の境界線上のパンツ


ストライクウィッチーズの女性キャラは常にパンツ・あるいは水着を丸出し状態(作中ではズボンという扱い)なのですが、「パンツ丸出し」という光景は、よくよく考えれば<非現実的>です。これは私たちの生きる現実から見て非現実的というだけではなく、アニメにおける現実(当然・常識・リアリズム)から見ても非常に<非現実的>です。パンツ丸出しで生活を送る現実など、私たちの殆どは知りません*1。アニメにおいても知りません。しかし、ストライクウィッチーズ世界においては、その「パンツ丸出し」が当たり前のものとして存在しているのです。パンツ丸出しという、私たちにとっての<非現実><非日常>が、あの世界では<現実><日常>として存在しているのです。
非現実を、パンツ丸出しで許容している。日常に一点だけ、パンツ丸出しという非日常を混ぜて、そしてそれは<わたし(視聴者)>以外に日常として受け入れられている。視聴者にとっては<非日常><非現実>になのに、ストライクウィッチーズ世界にとっては<日常><現実>。


今回、そのことについて考えてみました(結論出てない(纏まってない)ので、そのうち続き書くかも)。

*1:もちろん、どこかの土地・時代にはそういう場が在ると考えられます

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パンツってなに? あの小さな布地を、ストライクウィッチーズが「パンツじゃないもん」と言い張っても、見た目も機能もそのまま


パンツで御馴染みの『ストライクウィッチーズ』。最近見始めたのですが、これは――この作品のパンツ(のようなもの)は、もしかすると、パンツについて語るパンツというメタパンツなのかもしれない。私たちはパンツを見せる・見られることを基本的に恥ずかしいものとして受容していますが、しかし元々それは何に依拠されているのでしょうか。あの布切れの見た目? 機能? パンツという言葉の意味? 社会的な視線?


名前ってなに? バラと呼んでいる花を、別の名前にしてみても、美しい香りはそのまま
(「ロミオとジュリエット」より)
この言葉を思い出しました。てゆーかすみません!こんな記事に引用して……。


ストライクウィッチーズには、キャッチコピーとして有名な一文があります。「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」。どう見てもパンツにしか見えないあの小さな布地を晒している彼女たち(注:ストウィチ世界ではあれはズボンです)ですが、あれは別にパンツじゃないから、見られても彼女たちは別に恥ずかしくないよ?といった趣旨のキャッチコピーだと思われます。


ここに僕は、二つ、疑問点を抱いたのです。


「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」ということは、翻れば、「パンツだったら恥ずかしい(可能性が高い)」ということになるでしょう。パンツだったら必ずしも恥ずかしいとは限りませんが、しかし「パンツ”じゃないから”」という前提が恥ずかしくないという反応を確定している以上、その逆の、「パンツ”である”」には、恥じらいが前提として孕まれている必然性があります。というか、そうでなければこんな構文は成り立ちません。「パンツ(を見られる)=恥ずかしい(可能性が高い)」という自明の前提の元に成立している文章なのですから。
ここから読めるのは、『パンツだと恥ずかしい(かもしれない)(可能性が高い)』ということ。


次に感じたのは、あの娘たちが穿いてるのって、あれってぶっちゃけパンツじゃね?という点。



『パンツだと恥ずかしい(かもしれない)(可能性が高い)』でありながら、見た目や機能はパンツとほぼ同じ。けれども、ストライクウィッチーズの世界で、あれは恥ずかしくないのです。股間を隠す小さな布切れを見られても、恥ずかしくないのです。


しかし――しかしそれだと、新たな疑問が生じます。


ストウィッチ世界の彼女たちでも、パンツだったら恥ずかしいのかもしれない。しかし、彼女たちの穿いてるズボンは、見た目パンツそのもの。――じゃあ、彼女たちはいったい、パンツの何に恥じらいを抱けるのでしょうか? パンツだと恥ずかしいかもしれないという前提は、一体何処にある? パンツという名前に? それともパンツという存在に?
全く同じ作りで、同じ機能を有するものでも、パンツではなくズボンと呼べば、恥じらいを抱かなくなるのでしょうか?


上の文の「彼女たち」を「私たち」に置き換えても通じる話でしょう。私たちも……や、全てとは言えませんが、大方の人は、パンツを見られたり見せたりすることに恥じらいを抱きますよね? それは何故なのでしょうか。


パンツを見られること・見せることが何故恥ずかしいのか?
これまた同じく見られると恥ずかしい股間を隠す一番最後の防衛線だからでもあるでしょうが、それよりも僕としては、社会的に「パンツを見せる・見られるのが恥ずかしいことである」というのが強く働いていると考えます。パンツを見られて・見せて当たり前の世界だったら、パンツを見られて・見せても恥ずかしくないのではないだろうか。例えば、風呂上りにパンツ一枚リビングを歩き回ってるのが当然のこととなっている家庭では、その場(という限られた世界)でパンツを見られる・見せるという行動に恥ずかしさを抱かないでしょう。原理としては、テレビに見る未開拓地の現地部族の人々が殆ど全裸なのに恥ずかしがらないことや、ヌーディストビーチでは全裸でも大半の人が恥ずかしがらないのと同じです。社会により意味が規律される。


「パンツ」という言葉は、あの局部を隠す布切れのことを指し示します。現代日本においては、それを衆目に晒すことは基本的に恥ずかしいこととして受け止められています。しかし――しかしそれはあくまで、現代の日本。パンツ、ならびにパンツを見せること・見られることが、ありとあらゆる場所のありとあらゆる社会で恥ずかしいこととして受け止められるわけではないのです。


そういうことを、ストライクウィッチーズの『パンツ(みたいなズボン)』は、まるで語っているかのようです。記号表現と記号内容は、常に一定ではない、場所と社会で変化する。全く同じ見た目だけど。ストライクウィッチーズの世界では、あのパンツのようなズボンに、私たちが見るパンツとは別の意味が・社会的な意味が、与えられているのでしょう。そしてストライクウィッチーズ世界におけるパンツも、私たちが知らない『パンツ』というものか、あるいは、私たちが知ってるパンツとは別の意味が与えられているのかもしれません。
『パンツ』が持つ意味も、『パンツを見られる・見せる』という行為が持つ意味も、現在の私たちが抱いている意味が絶対ではなく、別の場所の別の世界では別の意味に変化する。パンツじゃなくズボンと言い張ってるけど、見た目機能が同じなら結局パンツなんじゃないの? と言ってみても、そこで私たちが思う『パンツ』という意味と、ストライクウィッチーズ世界における『パンツ(ズボン)』という意味が、全く違うかもしれない。小さな布地を、ただ「パンツじゃないから」と言ってるだけではなく――名前だけではなく、その中身まで、ただ私たちが思うパンツに似ているだけで、別物なのかもしれません。
私たちが考える意味は、私たちへの意味規律は、常に、私たちが知る世界・私たち自身の眼に依拠しているのだなと心から思わされる。……ストライクウィッチーズのパンツは、そんなことを考えさせられる、メタパンツでした。

次代のギャルゲーハードは、今までと別の意味でPS2、かも


■次のギャルゲーハードは存在しない可能性
http://gamemusic.blog50.fc2.com/blog-entry-730.html

こちらの記事を読んで。ギャルゲーハードについて考えてみました。


まず『ギャルゲーハード』という言葉。明確な定義は成されていないと思いますが、これまでに使われている文脈から、基本的には「ギャルゲーがたくさん出るハード」という意味で使われていると思われます(リンク先の記事がそういう意味で使ってる、ではなく、大抵どこでもそういったニュアンスで使われているでしょう)。

細かく見ると、現在の所これは二通りに分けられるでしょう。

ひとつは「コンシューマギャルゲーの大部分がリリースされてるハード」。最近で言うPS2や、昔のPCエンジンなどがそれに当て嵌まるでしょう。これは、そのハードが「ギャルゲーのハード」という意味ではなく、ギャルゲーをやるにはそのハードがベストすぎるから、必然的に『ギャルゲーハード』となる場合です。
もうひとつは、「そのハードでリリースされているゲームのかなりの部分がギャルゲー」。SS・DCの末期がそれにあたります。そのハードならコンシューマギャルゲーの殆どがプレイできるという意味ではなく、ソフトの割合においてギャルゲーが非常に大きいから、必然的に『ギャルゲーハード』となる場合。


現在までに『ギャルゲーハード』と呼ばれたものを分類すると、上の二つに分けられると思います。
そこをもう少し細かく考えて見ます。

「コンシューマギャルゲーの大部分がリリースされてるハード」

まず「コンシューマギャルゲーの大部分がリリースされてるハード」。これは過去、PS2PCエンジンに当て嵌まるのですが、その意味合いは大きく異なります。

まず最低条件として、PS2PCエンジン・SS・DC全てに言えることですが、『ギャルゲーハード』と呼ばれるようなハードには、その当時の「ギャルゲーを作れるスペック」が必要であるでしょう。市場規模・普及率が小さいPCエンジンが『ギャルゲーハード』になった一番の理由はここだと考えられます。スペックが足りなければスペックに合わせるアイデア出せば良い、というのはゲーム製作とスペックにおける考え方かと思いますが、しかしギャルゲーの場合は移植(PCからの移植)作品が多いので、それを問題なく成し得るレベルでないと多量のリリースは難しい(そもそも「移植すること」「作ること」自体が難しい)のではないか、と推測できます。
もし圧倒的に普及していて寡占的に市場規模の大きなハードがあって、そのハードがギャルゲーの要求スペックに全然達していなく、他ハードがたとえ大して普及してなく市場規模が小さくてもその要件を満たせるのなら、そちらのハードでリリースされる可能性が高いとも考えられます。SFCに比べ圧倒的に市場規模が小さいPCエンジンが『ギャルゲーハード』だった理由は、そのようなことであると自分は思っています。
(コンシューマオリジナルギャルゲーが、ごく限られたタイトルを除き殆ど売れないという現状を鑑みると、これからにおいて、この点は無視できないのではないかと考えられます)


PS2が『ギャルゲーハード』だったのは(であるのは)、その条件を満たし、さらに市場規模が途轍もなく大きかったため、であるでしょう。「アイドルマスター」のようなスペック的に移植が難しい物はともかく、普通のギャルゲーを、わざわざPS2以外でリリースする動機があまりなかった。

「そのハードでリリースされているゲームのかなりの部分がギャルゲー」

もう一つの『ギャルゲーハード』の条件、「そのハードでリリースされているゲームのかなりの部分がギャルゲー」。SS末期・DC末期がその条件に当て嵌まります。ただ、これは、「そのハードを持っていればコンシューマギャルゲーを網羅できる」というわけでもなく、「そのハードを持っていれば有名どころは全部プレイできる」というわけでもありません。

全タイトル数と、ギャルゲーの本数
セガサターン
1999年:18タイトル中8本
2000年:3タイトル中2本
ドリームキャスト
2002年:49タイトル中21本
2003年:27タイトル中24本
2004年:17タイトル中12本
そのハードにおける割合が異常に高いくらいにギャルゲーがリリースされています。が、実は、本数だけで言うなら同時期のPS・PS2の方が圧倒的に多いのです。

全タイトル数と、ギャルゲーの本数
プレイステーション
1999年:630タイトル中32本
プレイステーション2
2003年:447タイトル中38本
両機種同時発売や、SSからPS、DCからPS2への移植作も多く(特にDCギャルゲーの3〜4割は、PS2とタイトルが被っています)、その上PS・PS2だけの人気ギャルゲー(「ときメモ2・3」や「TLS」、「トゥハート」など)などもあったりして、『ギャルゲーハード』と言いつつも、「それさえあればコンシューマギャルゲーは完璧」では全然なかったりするのです。

つまり、単純に、「そのハードでリリースされているゲームのかなりの部分がギャルゲー」であった。

次代のギャルゲーハードは……

それを踏まえて「次の『ギャルゲーハード』」(例えギャルゲー自体が衰退してても当面はPCエンジンの頃*1のように細々と生き残るのではないか、と考えて(そもそもあの頃ギャルゲーという言葉自体が一般的じゃなかったし))を考えてみましょう。


まず「スペック」の話。
アイドルマスター」「タイムリープ」のような高スペックを要求するゲームもありますが、あくまで求められるのは「主流のギャルゲー」に耐えられる程度のスペックなので、DS以外は大きな問題なくクリアできていると言えるでしょう。DSに関しては、ROMカートリッジ容量(ボイスがあんま入れられない)と画質の点から、これまでと同じ様な意味での『ギャルゲーハード』となるのは難しいと考えられます。
ただし「これまでと違うギャルゲー」という意味では考えられて、例えば「魔女神判」とか「もえスタ」といった、DSオリジナル・むしろDSでしか出せないようなゲームですね、そういったタイトルは増えていっています。ただ、従来どおりのノベルゲーやシミュレーションはDSより他ハードの方が明らかに大いにで、DSでギャルゲーが出ないことはありませんが、『ギャルゲーハード』になる、という確率はあまり高くないと考えられます。


次にそのハードの市場規模・普及率の話。これは多いほうが良い・少ないとダメ、という話ではなく(勿論あまりに少なすぎるとダメでしょうが)、PS2くらい大きいと必然的にギャルゲーハードになる、という話なのですが。上の条件でDSを除外すると、現時点では何とも言いがたい状況でしょう(DSを含めても、それが寡占とは言いがたいですし)。


続いて、「そのハードでリリースされているゲームのかなりの部分がギャルゲー」という要件。
現在、サターン・ドリキャスのように、”全体の半分近くがギャルゲー”といったハードは存在しません。ですが、

総リリースタイトル数と、ギャルゲー数と、ギャルゲーの割合
■2007年
PS2:241タイトル中40本・16.5%
PSP:100タイトル中9本・9%
DS:426タイトル中4本・0.9%
Wii:101タイトル中0本・0%
PS3:53タイトル中0本・0%
XBOX360:65タイトル中1本・1.5%


■2008年(8月末まで)
PS2:96タイトル中26本・27%
PSP:60タイトル中7本・11%
DS:286タイトル中7本・2.4%
Wii:67タイトル中1本・1.4%
PS3:42タイトル中1本・2.3%
XBOX360:45タイトル中2本・4.4%

実は、PS2タイトルのギャルゲー率が、目覚しいくらいに上がっているのです。つか、全体の約3割がギャルゲー。

このペースで推移すると過程すると、SS・DCと同じ「そのハードでリリースされているゲームのかなりの部分がギャルゲー」という条件のギャルゲーハードに、来年・再来年あたりのPS2は意外と当て嵌まってしまうかもしれません。


つまり、『次代のギャルゲーハードはPS2』ではないかと……や、今もPS2だから一緒なんですけど、意味合いが「コンシューマギャルゲーの大部分がリリースされてるハード」から「そのハードでリリースされているゲームのかなりの部分がギャルゲー」に変わる・あるいはその両方になる可能性。



『その次』、となると、現時点では推測しようもありませんが、興味深いのはPSPCLANNAD」とDS「ひぐらしのなく頃に絆・第1巻」の売り上げ。
2008年に発売されたPSPCLANNAD」が(アニメ版の効果があったとしても)2006年に発売されたPS2CLANNAD」とほぼ同じ売り上げ(約4万本)。PS2ひぐらしのなく頃に祭」の売り上げが約11万本で、ファンですら一歩引いてしまう4タイトル分割(1巻〜4巻で完結)を行ってる「ひぐらしのなく頃に絆・第1巻」の売り上げが(映画による話題などあったとしても)約6万本。
どちらも、ほぼ同内容、むしろ音声の分悪いぐらいの移植の割には、思ったより落ちていない――CLANNADに至っては大健闘だと思うんですよね。これはある意味ユーザーの分散――動機は、PS2を持ってない、あるいは、移動中にゲームをしたい・家の中でも携帯機でゲームをしたい(TVがリビングにしかない実家暮らしの人とか)、とか、いろいろ考えられるんですが(&明言できないんですが)――を表している面でもあるのかなぁと思うと、『その次』のギャルゲーハードというのは、なかなか形になりづらいんじゃないかな、とか考えたりもします。

*1:ギャルゲーっぽいデジタルコミックアドベンチャーもギャルゲーと考える、くらいの勢いで、本項においては取り扱っています

ギャルゲー・テレビCMのまとめ


(前置き)古いビデオの整理していたら、深夜のスポーツ番組の間にギャルゲー『ファーストKiss物語2』のCMが入ってて、(中略)ギャルゲーのCM動画を集めてみました。(前置き終わり)


テレビCMのみです(もしかしたら違うの混じってるかも)。店頭デモなどは含んでいません。ニコニコ動画youtube・All adverts,TV video game commercials spots ads(正式名称わからん)にある動画だけで、これが全てのギャルゲーテレビCMではありません。
特に記述無く並んで置いてあるYoutube動画とニコニコ動画のリンク先は、同じ内容のものとなっております(ニコニコ動画のアカウント無い方用)。

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エロゲタイトルの略称について


この前ネット見てたら「すマイル、すマイル」書いてる人がいて、一体何のことなんだろうと疑問に思ったのですが、もしかしたら『水平線まで何マイル?』の略かなと考え、調べてみたら確かにそうで、なるほど、いかにもエロゲタイトルの略称っぽいなと納得しました。

エロゲタイトルの略称って、知らない人からすると「それ何の略だかわかんない」って感じのものが結構あります。

例えば『けよりな』『かにしの』『こんにゃく』など、いずれも(エロゲの中では)有名なタイトルですけど、知らない人からすれば何の略かさっぱりわからないでしょう。これは敢えて、「わかる人だけわかればよい」という形にしているとも考えられるのですが(非エロゲーマーから隠す・会話への参入障壁にするといったニュアンス)、とりあえずおいといて。


エロゲタイトルの略称を、かなり大雑把に分類してみました。


こうやって見てみると、「ひらがな」「カタカナ」だけが多いように、基本的に話し言葉としての意識よりも書き文字としての意識の方が高いように見えます。書かれる場合を指向している、つまり、パソコンで打ち込んだ際に簡単に変換できる。実際こうやって打ち込んでいて殆どが、スペースキー一発orF7一発で変換余裕でした。
エロゲは、その非一般性や社会性から、現実で声に出して話題にすることよりも、パソコン上でキーボード打って話題にすることの方が多いでしょう(ユーザーはPC持ってるでしょうし)から、例えば『夜明け前より瑠璃色な』が「けよりな」「あけるり」「よあけな」(全部ひらがな)で略されるように、その略称はある程度タイピング用に最適化計られているんじゃないか、そして単純に単語一つの略を略称にすると、一般的な単語が多くて他タイトルと区別付きづらくなるので(『この青空に約束を』を、「青空」とか「約束」と略すと他タイトルと混同してしまいそう)、ひらがなのみとか、ちょっと無茶な略称とかが多かったりするのではないかなぁとか思われます。


参考:http://neneco.sakura.ne.jp/ergwiki/index.php?%BA%EE%C9%CA%A5%BF%A5%A4%A5%C8%A5%EB%CE%AC%BE%CE%B0%EC%CD%F7

らき☆すたに学ぶコミュニケーション


らき☆すた』を観ていると、主に会話で表現される登場人物たちの関係性、それが意外にも彼女たちのコミュニケーション能力(無自覚的なものを含め)により保たれていることに気が付きます。ということで、本日はらき☆すたキャラのコミュニケーション処世術、そこから少し学んでいきたいと思います。
一つお気を付け頂きたいのは、「らき☆すたに学ぶ」と銘打ちましたが、所詮は恣意的にコントロールされるアニメから恣意的に抜き出したことばかり、それはさながら『ハヤテのごとく!』から執事の在り様を学ぶような、『おまかせピース電器店』から電気屋の理想を学ぶような、『島耕作』からサラリーマンの出世術を学ぶような、とてつもない無茶振りでございます。そのことをご配慮お願い致します(つまり真に受けてもアレだよみたいな)。

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綾崎ハーマイオニーがこんなに可愛いわけは何?


漫画『ハヤテのごとく!』には、20代男性から絶大な支持を集める綾崎ハーマイオニーというキャラクターがいます。


(一番右のキャラクター)

どんなキャラかというと、早い話が「女装した綾崎ハヤテ」(が名乗った偽名)なんですが……。


さて、20代男子たるもの支持して当然!というほどの人気を誇るこの綾崎ハーマイオニーですが、彼(彼女?)がそこまで支持されるほどの魅力とは何なのか、そこを考えていきたいと思います。


綾崎ハヤテ綾崎ハーマイオニー

一言で述べると「女装キャラ」なのですが、一般的な女装キャラと少し毛色が異なるような気がします。


女装男子ランキング
http://notf.sakura.ne.jp/archives/76

女装キャラクターは、僅かな例外を除くと「日常的に女装している」キャラ(上記リンクに入っているようなキャラクター)と、「一回〜ほんの数回だけ女装したことある」キャラとで分けられますが、綾崎ハーマイオニーに関しては後者に当て嵌まります。
ナギやマリアの想像や妄想の中に女装したハヤテが登場してくることはたまにありますが、それを除くと、第1巻8話の時と第9巻ヒナ祭り祭りの時、それと第11巻の読者人気投票発表時と第16巻クラウス除霊の時しかありません。そしてその全てが、自ら進んで”ではなく”、無理矢理の命令だったり女装しなくちゃいけない呪いだったりそれしか解決策が無かったりといった、ハヤテにとって不可抗力での女装です。
読者から支持され作中でも似合ってると明言されてはいますが、ハヤテ自身は日常的どころか出来れば女装などしたくないのです。


■女装キャラに萌える4つの理由
http://d.hatena.ne.jp/littlepeach/20080729/p1

さらに詳しく見るために、こちらを参考に綾崎ハーマイオニーを考えてみたいと思います。


1、大胆
女装キャラって気軽にくっついてきたり、キスしようとしたり、あま〜い声で誘惑してきたりするんですよね。
(中略)
普通の女の子は、特にエロゲーは割と男の子との付き合いには恥じらいがあるキャラが多い中(それも一つの萌えなのですが)、周囲を気にせず、好意を行為でしめしてくれる女の子・・じゃなかった女装男子
綾崎ハーマイオニーは、まるで大胆じゃありません。むしろ逆、女装している姿を他人に見られまいと、隠れまくりの逃げまくり、自分の姿に恥じらいまくりです。好きで女装しているわけじゃないですし、女の子になりたい願望があるわけでもないですし、もちろん男が好きなわけでもないですので、彼としては当然の小胆と言えましょう。まあ存在自体が作者の大胆だったとも言えますが。
2、付き合いやすい
女装キャラの多くが主人公とは友達として仲がよいです。関係は普通の男友達と変わりないどころか親友って設定も珍しくありません。
綾崎ハーマイオニーは、超が付くくらい付き合いにくいでしょう。隠れる・逃げると、基本的に人前に出てきませんし、もし彼に向かって「好きだ」などと告げようものなら、虎鉄くんみたいに変態呼ばわりされてしまいます。


日常的に女装しているキャラクターとは、こういった感じの相違点が見受けられる綾崎ハーマイオニーですが、これってまんま、「当たり前の反応」でもあるでしょう。
普通の男が、無理矢理女装させられたときの当たり前の反応。
女装趣味はないし、男色癖もないし、女性になりたい願望もない普通の男が、もし無理矢理女装させられたら、こういった反応を示してしまうのではないでしょうか。恥ずかしいし隠したいし、女装した自分を好きとか言ってくる人は変態だと思ってしまう。綾崎ハヤテは「(彼の中での)男らしくなりたい」という指向が多少なりともありますので、特にそうでしょう。
当たり前の反応。それはまんま「綾崎ハヤテの反応」と言えます。
別に女装して綾崎ハーマイオニーになったからって性格が変わるわけでもなく、男性の綾崎ハヤテのままなのです。


さらに言えば「見た目」もさほど変わっていません。ただ服装が変わっただけ。
ウィッグを付けてロングヘアーにすることもなければ、化粧することもありません。
言葉使いもほぼ変化していません。多少仕草に女っぽいところが出ていますが、元々ハヤテからして非常に柔らかい仕草をしますので、たまにやけに女っぽい仕草を見せるといった程度で、全てが極端に女っぽくなったと言えるほどではないでしょう。


つまり、綾崎ハーマイオニーは、綾崎ハヤテとさほど変わっていないのです。


となると、綾崎ハーマイオニーを可愛いと思うわたしたち世の20代男性の大半は、もしかすると、「綾崎ハヤテ」も可愛いと思ってるのではないでしょうか? 何せ中身も外見も、それほど大きな変化ではないのですから。


綾崎ハヤテは、見た目も仕草も、如何にも男らしくたくましいというより、どちらかというと女っぽい柔らかさを持っています。他人に気を遣えて優しい性格だし、大事な人の為には何でも出来る強さを持ってるし、炊事洗濯掃除と家事は完璧、つうか何をやらせても人並み以上にこなすし、それなのに大事なところがちょっと抜けてたり不幸な目に会いやすかったりと非常に守ってあげたい属性かついじめたい属性を持っていたり、二パーとした笑顔が可愛かったり。

3、禁忌
姉や妹、強いては幼馴染でも言えることなんですが、そこに触れちゃいけないという気持ちが強ければ強いほど萌えてしまうものです。とくに女装キャラの場合なんて、相手は性別男なんですから、その思いは特別に強いです。こいつは男だ、駄目だ、と考え出したら終了のお知らせです。
引用部とは逆で、「男であるから憚れる」という前提を曖昧にしていると思うのです。綾崎ハーマイオニーは、「女装している」という事実で、綾崎ハヤテに対する好感情の発露を肯定している面もあるんじゃないかなと思うのです。
男に可愛いだの萌えるだのおおっぴらに言うのは憚れますが、女装キャラにならそう言える。前提の変化が、内部に対する表明(自覚)と外部に対する表明(発露)を許容しているのです。

綾崎ハーマイオニーは「男」と一言で切り捨てられない存在。だから、おおっぴらにすることができる。
綾崎ハヤテの笑顔が可愛い」なんて言ったらハヤテの虎鉄に対する「変態」では済まない感じがするけど、「綾崎ハーマイオニーの笑顔が可愛い」なら、そんなにアレな感じはしない。だって「仮に」なんだけど女の子なんだから。
男相手に「可愛い」「萌える」はちょっと特殊な趣味っぽいし、特にこの場合はハヤテ自身に対し失礼(というかハヤテが望んでない言葉)な感じがするけど、女装してるそのキャラ相手なら、綾崎ハーマイオニーになら、「可愛い」「萌える」を言う事ができる。


綾崎ハーマイオニーを可愛いと思う気持ちは、綾崎ハヤテを可愛いと思う気持ちと非常に近しいのではないでしょうか。