ネタMADが、元作品に触れる自分を変える感覚


さて、僕はリトルバスターズ大好きな鍵っ子ですが、こういうネタMADも大好きでたまらない。

これを見た所為で、元ネタのリトバスEXをプレイして、OP映像を見た時に、どうしても脳裏にガチムチ兄貴の顔が浮かんできてしまう、その感覚がたまらなく好きなのです。


こういうネタMADが自分自身に植えつけられ、元ネタになった作品に触れる際にどうしてもそれを思い出しちゃうというこの感覚に、つくづく、作品と読み手とは分離しているものだなと感じます。
こういった、原作の文脈を無視した・あるいはメチャクチャに改変したMADは『リトルバスターズ!』だけでもたくさんあって、個人的には、


この動画を見た所為で、リトバスOPにケツドラムの幻聴が聞こえてくるし、
(※非常にネタバレ注意)
リフレインの山場のシーンに差し掛かった時に、この動画の後半部分を思い出してしまったり、

このBGMを聞くと、このラップが自動的に脳内に流れてしまう。


例えば他人の作品感想なんかも、そこに感化される部分があれば、元となる作品をやった際にその他人の感想を思い出して、作品の意味をある程度固定させられる場合とかありますよね。例えばアニメの感想なんかで、非常に整合性に富み優れた視点で「このシーンの意味はこうなんだ!」ってことが書かれてるものを読んだ後にそのアニメを見ると、もうどう見てもそういう意味に見えてしまう、といった具合に。
その感想というものは、元作品に存在しないことも書かれているでしょうが、基本的に元作品に寄り添っている・文脈を依拠しているからこそ、意味を規律するほどの強度を持つのでしょうが、個人的には、こういったネタMADにも、ある意味では同じベクトルの効力を発揮している場合もあると感じます。
元作品ではない別の作品に触れることで、元作品から感じることやその意味を、多少なりとも変化させる、というベクトル。
ただし中身は全く異なります。優れた感想や考察や批評が、読み手にとっての作品の意味をより深く知らしめるものであれば、優れたネタMADは、(ネタなのだから当然)作品の意味に直截的に作用するはずもなく、むしろ作品がネタの素材として扱われうる(その構成要素はネタとして切り貼りされうる)ということを知らしめることになるでしょう。


元作品に存在しないこと(元作品・その要素からの連想的なもの)も書かれているだろう感想や考察や批評が、読み手に影響を与えること。元作品から分離して、ただ音声や映像や構成などの要素を共有しているだけで、元作品の物語世界になんら影響を及ぼさないのに、横断して観測してる読み手にだけは十分な影響を与えうるネタMAD。
そういうのを見ると。そういうのが、元作品そのものには何の影響も与えるわけもないのに、わたしにとっての作品にだけ影響を与えていることを感じると。
作品から感じる感情も、作品の全ての意味も、それを作り出してるのは・規定しているのは、明らかに個々人の読み手なのだな、ということを克明に知らされます。作品そのものは確かにあるのですが、そこから得る感情も、その意味も、その存在も、読み手にとっては読み手が勝手に感じて規定するものでしかないものだなとつくづく思わされます。


上に挙げたニコ動のMADには、極稀に「原作レイプ」「リトバスを汚すな」といったコメントが本気っぽく(wとか付けずに)書き込まれてる場合がありますけど、正確には原作レイプリトバスを汚したと言えるのかどうか分かりかねます。このMADが存在している、ということ自体は、原作に対し何の影響も与えないのですから。これらは素材しか元作品に存在しないし、直接に元作品に影響を与えることはありません。このMADを認識していない者にとっては、原作に対し与える意味など何一つ無いのです。しかし勿論、このMADを認識している者にとっては、原作に対し与える意味はあるでしょう。では「原作レイプ」「リトバスを汚す」とはどういう意味かと言えば、このMADを認識した者にとっての原作・リトルバスターズでしょう。


こういう、元作品とは異なるものにより元作品を読み取る自分自身に影響が与えられて自分が読み取る元作品がたとえネタにだろうと――いやむしろネタに変化してしまう、そういった感覚が個人的には大好きです。レイプされたのは元となる原作じゃなくてわたしの中にある(わたしの感情の)原作で、汚されたのは元となるリトバスじゃなくわたしの中にあるリトバスで、それは「原作」「リトバス」とは明確に剥離していて、完全に自分のものであると教えてくれます。
読み手が読む作品は、読み手という主観が在る以上、元作品と同じものではないということを明確にしてくれるし、いくら「神作品だ」「リトバスは友情」だの言ってても、それは主観に拠るものだけで、他者にとっては「ただのネタ」にも成り得るただの作品で、まさしく、作品と読み手が見ている作品と他の読み手が見てる作品は精緻には別物であるということを証明していると言えるでしょう。



先日『らき☆すた』をちょっと再視聴したのですが、ニコニコ動画のMADの影響か、こなたがチョココロネ喰ってる場面で、なんか勝手に脳内でらき☆すたMADが流れ出して耳にはネイティブフェイスやU.N.オーエンの幻聴がしだして面白かったです。

一年前に見た作品を今見返せば、当然、その一年間の自分の変化によって、見えてくるもの・感じることも変わってくるのですが、ネタMADもそこに影響を及ぼしていて、笑うというか楽しいというか(笑)。
ネタMADはネタMADゆえに作品素材・要素を切り出しネタに転化しているのですが、元作品を見る自分自身はネタMADも元作品も横断して見ているので、元作品を見てネタMADを思い出し、素材や要素はあくまでも素材や要素でありそれイコールが・それの総和が作品ではない、しかしそれらはネタにも成り得る・既に成っているということを認識し、ちょっとだけ作品を豊かに見れる気になるのです(個人的には)。

はたしてパン工場TINTINの場面を再視聴したらどうなるのか、自分は普通の顔でそれを見れるのか、そいつがちょっと楽しみであります。


(エロゲとかの)ループものについて少し。


ループものについて少し。つうかよく纏まっていないメモ。


例えば一本道や(普通のフォーマットの)選択肢による並行世界にするのではなく、わざわざループ構造にすることには当然、何らかの意図があるだろうし――もし意図が無いとしても、もし意図が見えないとしても、そこに(意図とは関係なくとも)何らかの意味は生み出されているでしょう。


ループの特徴として、まず「繰り返し」「やり直し」が挙げられます。ループものは大概、ある時点・地点まで到達したらループの始点に戻るという体裁を取りますから、てゆうかループというのは基本的にはそういうもののことですから、必然、繰り返したりやり直したりできるということになります。
繰り返し・やり直しに接する物語は、主に二つの方向性の意味を持ってして描かれることができるでしょう。「繰り返すことができる・繰り返されてしまう」「やり直しができる・やり直されてしまう」――これの前者・あるいは後者という方向性。この二つ、起こっている事象は同じですが、感じている主体が異なります。どんな出来事も感情も、ループによって無かった事になってしまうという前者。どんな出来事も感情も、ループによって無かった事にすることができるという後者。
ただし平行世界(可能性)ではなくループ(連続性)なので、たとえば登場人物の記憶もループするような設定でも、厳密には無かったことにならない――少なくとも、通じて観測できる読み手にとって、それは連続して起きてる出来事だと記録されます。
この、厳密には「無かった事にならない」――「起こった事実になっている」という点は、並行世界設定とループ世界設定との大きな差異に挙げられるでしょう。そして主人公・登場人物がループ毎に記憶を失う場合は、読み手の記録による二者の情報の乖離、またループという世界構造に対する知覚如何でも乖離・差異が生じます。


大雑把に纏めると、

  • ループによって無かった事になってしまう←→ループによって無かった事にすることができる
    • 「ループ設定」そのもの――それに接する主体が、物語の意味合いを変化させられる。作中人物が「ループ」を認識していれば、彼らの感情に作用させられる。作中人物が認識していなくても、読み手に対して作用させられる。
      • ざっくばらんに腑分けると、前者がグッドエンドで後者がバッドエンドみたいな。リトバスの個別シナリオにおけるヒロイン達の心情が前者なら、クロスチャンネルの太一が皆を殺しちゃったシナリオが後者みたいな。
  • 平行世界(可能性)ではなく、ループ世界(連続性)。例え作中で忘れ去られても、「あったこと」「起きたこと」である。
    • 「忘れてても厳密に無かったことにはならない」と言えばリトバスとか。プレイヤーとアンリとゲームシステムだけが連続性を共有していくフェイト/ホロウとか。その連続を通じて観測している読み手に対して物語世界を跳び越して(というか読み手もそこに組み入れて)意味を作り上げるEver17とか。

あとは……ループというのはループから出る条件を満たすまで永遠に続いたりするものが多いので、その「永遠を壊す」――不変を唾棄する、停滞を拒む、変化を望む――みたいなのと相性が良い。どれだけ楽しい世界でも、どれだけ優しい世界でも、どれだけ居心地が良い世界でも、それを拒まない限りは永遠にループが続いてしまう。ゲームを繰り返しプレイするプレイヤーという構図(=ある意味ループ構造化)を、ゲーム自体がメタに語ってる面もなくはないかも。とかそんな話。

ゆるいコンシューマギャルゲー年表


■ヌルオタによるヌルオタのためのエロゲー年表
http://tekitounaotoko.blog4.fc2.com/blog-entry-351.html
に影響されて、コンシューマギャルゲー版でやってみました。パソコン市場の文脈やそこからの影響・共時性などは基本的に無視しています。
PS/SS以前は聞きかじりだらけなので、何というか、イマイチです。いや、かなりイマイチな感じです。PS/SS以降は主観バリバリです。異なる見解もあると思いますが、お手柔らかにお願いいたします。

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「シャララ エクスタシー」にも意味はあるのでしょう。


作品における(受け手の読みにおける、その作品の)『意味』と、作者の『意図』。その二つは、明確には同じではない……というか、かなり異なる代物です。
作品内のモノ、その全てに『意味』は宿っています。どんな些細なテキストにも、どんな小さなグラフィックにも、どんなか細い音楽にも。たとえ弱く儚くあってもなくても同じレベルであろうとも、確かに『意味』は存在します。
ただ、その全てが『意図』の元に作られたわけではありません。正確には、”意図が表現されてるとは限りません”。当たり前の話ですね。全ての表現を的確にコントロールするのは難しいし、全ての連辞を十全にコントロールするのは不可能に等しい。伝えたいことや表現したいことをそのまま過不足なく伝えたり表現したりできれば、何も苦労はしないという話です。
しかしながら、作品として表記されているものがある以上、それはその作品にとって――受け手にとって――何かしらの『意味』を創出してしまっています。


何かと話題な「リトルバスターズ!エクスタシー」の、HシーンでのBGM。

エクスタシー エクスタシー
シャーラーラー エークスタシー
リトルバスターズ!エクスタシーのHシーンBGMがなんかヤバイ件
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4091139
現状では、まるでネタやギャグのように消費されている節がありますが、しかしこれにも『意味』と『意図』があるでしょう。


『意図』を正確に量り知ることは不可能です。しかし、それを知っていようがいなかろうが、表記されたもの全てに『意味』はありますし、意図が表明されない限りは、そちらの方が優位に意味を生成できるでしょう。
「シャララエクスタシー」を、ギャグだ、ネタだ、と捉えることも出来ます。正直、私も最初は盛大に吹いてしまいました。
しかし、それ以外の意味も確実に存在します。それ以外の意味に捉えることも出来ます。
あの音楽と、歌詞の「エクスタシー」という言葉の意味(神秘体験的なうんぬん)と合わさって、何となく神聖な感じを表現したいとか、そこから逆に「Hすること」が持つシナリオ上の意義まで規律している、など、色々な意味を創出できます。もちろん、「恭介が歌ってる(歌わせてる)」説も大いにアリだと思います。
「シャララエクスタシー」を、(個人的にならともかく)誰しも共有できるような意味で固定することは、私には力不足で出来ません。そこまでの材料を見い出せていません。作者側の意図が表明されれば、ある意味早いとは言えますが。
しかし、然様な現状であれ、このBGMに、ネタやギャグで消費される『以外の』『以上の』意味もある、というのもまた、確かでしょう。

朱鷺戸沙耶の髪型について、あるいは「ボリュームある」「もっさりした」「長い」髪型について


以下、「リトルバスターズ!エクスタシー」の朱鷺戸沙耶シナリオのネタバレをぼかしてるけどちょっと含んでるつうか示唆的なので、ご注意下さい

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